今日もおとなのフリ。疲れまちた。
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おひげをつけて年寄のフリをしておりますと、今日は唐の開元年間(713〜741)のひとがやってきまちたよ。
このひとは唐堯臣というひとの家臣であるが、このたび唐堯臣が亡くなったので、その墓地をどのように定めればいいか、訊きに来たのです。
チュウゴクではお墓の場所(「陰宅」)をどのようなところに定めるか、によって子孫の上にまで禍・福を与えるというので、これを定める占いのため、相地師とか風水師とかいう特別な職業が発達したほどです。(ちなみにこの人たちは、生きている人間の住家(「陽宅」)についても占ってくれますが、「陰宅」の方がより重要とされた)
おいらはこの相地の専門家ではないので、
「おっほん。そうでちゅねー、
張師覧善卜冢。弟子王景超伝其業。
張師覧は冢を卜うに善なり。弟子・王景超はその業を伝う。
張師覧というひとはお墓占いが得意である。また、その弟子の王景超は先生に学んでその術を伝えておる。
この二人のどちらかに相談するがよろしいでちゅぞ」
と教えてあげました。
その人、張師覧に依頼したが、師覧は相当の高齢であったので、結局王景超が墓地を決めるために現地に赴いた。
景超は唐家の所有地を隈なく調べ、ついに穏やかに傾斜する丘の南麓に相応しい地を見つけたので、唐家では盛大に葬儀を営んでその場所に堯臣を葬った。
さて。
葬儀の後、しばらくしてからのことである。
唐氏六畜等皆能言。
唐氏の六畜等、みなよく言えり。
唐家で飼っていた六種類の家畜どもが、みな人間のことばでしゃべりはじめた。
六畜は一般には牛、馬、ブタ、羊、犬、ニワトリである。
彼らはみな、
罵云、何物蟲狗、葬我著如此地。
罵しりて云う、「何物ぞ蟲狗、我を葬りてかくのごときの地に著(ちゃく)す」と。
ぶうぶうと悪態をついて言うのであった、
「いったいどこの犬っころだ、わしをこんなところに葬り埋めおったのは」
・・・犬もこう言ったのかと思うと面白い感じもいたしますね。
はじめは気味悪いと思いつつも聞こえないふりをしていた家人たちであったが、いつまで経っても家畜どもは
「ぶうぶう、こんなに言ってもわからんのか」「こけこけ、情けないやつらじゃ」「もうもう、子孫にまで害が及ぶというのに」「わんわん、そろそろ何かが起こるぞ」・・・
と口ぐちに言い続ける上に、葬儀の指揮をした例の家臣がブタに突っつかれて負傷する事件が起こり、
家人惶懼、遽移其墓。
家人惶懼して、にわかにその墓を移す。
家人らはおそれおののいて、急遽、堯臣の墓を移してしまった。
すると
怪遂絶。
怪、ついに絶す。
その後はおかしなことは起こらなくなった。
ということである。
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以上、唐・戴君孚「廣異記」より(「太平廣記」巻389所収)。
うっしっし。今回はおいらは占いに関与していないので、責任感じなくていいので楽チン楽チン。王景超さん、プロなんだからしっかりちてくだちゃいよー。
・・・というように責任無いことにはのびのびとしていられるのですが、会社で責任を追及されて弱ってちまっている肝冷斎ちゃんでちた。子どもなのに。