昨日は久しぶりで午前さまで更新できず。いや、コドモなので「午前ちゃん」でちたね。今日もちょっと飲んで帰ってきまちた。あたま痛い。コドモには飲み会がつらい。
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↓以下、「おいらも真似してみようかな」と思っても、ぜったいやってはいけませんよ。
よくいうことですが、
癲漢跳墻、雖跌而不傷。酔人墜車、雖疾而不死。
癲漢の墻に跳ぬるに、跌(テツ)するといえども傷まず。酔人の車より墜つるに、疾(はや)しといえども死せず。
頭のおかしな人が土塀の上で跳びはねていて、踏み外して落ちてもめったにケガをするものではない。酔っ払いが馬車から落ち、かなりのスピードであっても死ぬことはない。
と。(もちろんそうでない例もたくさんあると思いますが)
これは何故であろうか。
以其忘形而不知也。
その形を忘れて知らざるを以てなり。
そのからだのことを忘れてしまい、気にしていないからではないだろうか。
これこそ、生を養い身体を健康のまま保つ方法というものである。
人は「三つの宝」に頼って生きているのだ。
「三つの宝」が集まっているうちは生きていられるが、「三つの宝」がばらばらになれば死ぬのである。
「三つの宝」とは何ぞや。
精気神三宝也。
精・気・神こそ三宝なり。
ちから・いのち・たましい、が、「三つの宝」なのである。
―――「精・気・神」を日本語に読み替えるのは難しいような気がしますので、とりあえずこのように略解しておきます。
この「三つの宝」を集めようとすれば、まずはおのれを無にせねばならない。おのれを無にするには、心を虚にせねばならない。
心虚則三宝無滲無漏、無消無耗、只有増而不能減。
心虚なれば三宝は滲む無く漏るる無く、消ゆる無く耗する無く、ただ増ありて減じるあたわざるなり。
心が虚であれば、「三つの宝」は漏れ出ることが無く、消耗することが無く、ただ増えるばかりで減ることはありえない。
増えるばかりなら内面が満たされるようになり、内面が満たされれば生きるためのはたらきが動き続け、老いることが無いのである。
彼癲漢酔人僅一忘形、尚能不死。而況神全気足精固、未有不能保生者也。
かの癲漢・酔人はわずかに一の形を忘れたるのみなるに、なおよく死せざるなり。而るにいわんや神全うし気足り精固くして、いまだ生を保つあたわざる者あらんや。
上述したように、おかしな人や酔っ払いは、ただ身体のことを忘れている、というだけなのに、それでも死なないのである。たましいが完全で、いのちが満ち足り、ちからがしっかりしている人が、生命を保つことができずに若死にしてしまうなどということは有り得ないことなのである。
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ありがたや。でも絶対に「癲漢・酔人」の真似はしてはいけませんよ。どうしても、という人は自己責任で・・・。清・悟元道士・劉一明「悟道録」(「道書十二種」所収)巻上より。