耐えに耐えて週末だ。なのに・・・。
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明の時代のことでありますから、神話や伝説の時代ではない。
山西・長治の潞安府。この町には数階建ての目立つ楼閣があった。この楼閣が、庚寅の歳(萬暦十八(1590))の五月の十四日、正午を少し過ぎた真昼間、
忽然不見。
忽然として見えずなりぬ。
突然、影も形も無くなってしまったのである。
当時ずいぶん噂になった事件であった。わし(←肝冷斎にあらず)は潞安出身の友人、王問臣に細かいことを聴いたので、メモしておく。
・・・その時、この楼閣には三人の人が昼涼みに昇っていた。このうち、
両人驚斃。
両人は驚き斃る。
二人はそのまま楼の建っていた地面に倒れ、恐怖に歪んだ顏でこときれていた。
一人墜城下後甦。
一人は城下に墜ちて後に甦(よみがえ)る。
のこりの一人は遠く離れた府城の外に倒れていて、このひとは何とか息を吹き返したのであった。
彼の証言によればーーー
見紅面四人、黒面四人、各衣色如面倶戎装。紅者立内四角、黒者立外四角。
紅面なるもの四人、黒面なるもの四人、おのおの衣の色は面の如く、ともに戎装なるを見る。紅者は内の四角に立ち、黒者は外の四角に立てり。
赤い顏の者が四人、黒い顏の者が四人、それぞれの衣服は、顏と同じ色で、軍人の装備を身に着けておったが、赤い方の四人は楼閣の柱の内側の四隅、黒い方は柱の外の縁の四隅に立っていたのを、おれは見たのだ。
続いて、
響声如雷。
響声、雷の如し。
かみなりのような音が響き渡ったのだ。
その次の瞬間には気を失った。
身不知何以墜此也。
身は知らず、何を以てここに墜つるやを。
どうしてこのおれが(城外の)ここに倒れていたのか、からっきしわからぬ。
ーーーという。
現場を見てみたが、
廩梁柱礎、一物無存、宛如摂去、止留空基一片。
廩・梁・柱・礎、一物も存する無く、宛として摂去せるが如く、ただ空基一片を留むるのみなり。
付設の蔵、軒にわたしてあった梁、柱と礎石、どれ一つも残っているものが無い。まるで誰かが取り去ったようで、ただなにもない一画の基礎だけが残っているだけなのである。
楼閣はどこに行ってしまったのか。
ひとびとは
訪之遠近、無見聞者。
これを遠近に訪うに、見聞する者無し。
あちこちに質問してみたが、どこにも見たという者も聞いたという者もいなかった。
さてさて、山が飛んで湖に落ちて島になったという伝説や、貧乏詩人が詩を書きつけた草稿が風に吹かれて東方の国にまで飛び、かの地で大評判になって、ついに王女さまの婿に迎えられたというおとぎ話を聞いたことがあるが、これらのように風に運ばれたものは何処かしらにその行き先の痕跡があるものである。
ところが、
此楼不知飛落何処。更令人難索解矣。
この楼はいずれの処に飛び落ちたるか知られず。さらに人をして解を索(もと)むるを難からしむるなり。
この楼閣はどこに行ってしまったのかが全くわからないのだ。いったい何が起こったのか、真実を探ろうとする人に、一段と難解な問題となっているのである。
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明・鳳石先生・李中馥「原李耳載」より。
そんなに不思議でしょうか。これはいわゆる「バミューダ現象」で、この楼閣は四次元に消えてしまったのである。現代的観点よりすれば珍しくもなんともないことであります。(え? バミューダ海域で多くの船舶・航空機が行方不明になった、といわれるが、実際にはそんな事件は起こっていなかった? ・・・そんな「良識派」の言葉に騙されてはいけませんぞ!あなたは「それが起こらなかったこと」を、実際に見たのですか!?)
それより明日と明後日の出勤。わしのようなビョウキを持っている者にこの仕打ちをする会社側の考えこそ不思議である。