本日は古いしごと仲間と飲み会でした。一応、おいらの歓送会を兼ぬ。一人、福島原発に行っている人が出席できなかった。席上、師より
男児、三界に家無し。
の語を教えらる。これがはなむけの語であろうか。
しかし、まあ、近況を報告するなどによって楽しくやってきました。
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そしてこの隠逸の山中に帰ってきたわけだが、帰りくる路上で「憂世者」(世を憂うる者。社会を心配するひと)に呼び止められた。
―――そなたは隠逸者・肝冷斎であろう。
わしは正直者なので、
「そうですよ」
と答えました。
すると、「憂世者」曰く、
―――さればそなたは「忘世者」(世を忘るる者。社会を棄てた人)ではないか。
と言うので、
「そうですよ」
と答えてやった。
―――されば聞くがよい。
「はあ」
憂世者与忘世者談、忘世者笑。忘世者与憂世者談、憂世者悲。
世を憂うる者、世を忘るる者と談ずれば、世を忘るる者は笑わん。世を忘るる者、世を憂うる者と談ずれば、世を憂うる者悲しむ。
社会を心配するひとが、社会を棄てた人に話しをすれば、社会を棄てたひとは、「何を心配しているのか」と大笑いするであろう。
一方、社会を棄てたひとが、社会を心配する人に話しをすれば、社会を心配するひとは、「どうして社会のことを心配しないのか」と悲しく思うのである。
「はあ」
嗟夫、六合骨肉之涙、肯向一室胡越之人哭哉。彼且謂我為病狂。
嗟夫(ああ)、六合骨肉の涙、あえて一室の胡越の人に向かいて哭さんや。彼、まさに我を謂いて狂を病めりと為さん。
ああ。社会が心配でならないわれらは、世界は家族と同じだ、という立場で心配して涙を流しながら泣き声を上げる。しかし、相手がおまえさんたち社会を棄てた人であれば、同じ部屋にいたとしても北方の胡族のと南方の越族のように違う感じ方・考え方をする者同士なのだ。おまえさんたちは、わしらを「こいつはおかしくなってしまっているのだ」と考えることであろう。
「はあ。・・・そうでしょうな」
そう答えたら、彼は、
而又安能自知其喪心哉。
しかるにまたいずくんぞよく自らその心を喪うを知らんや。
しかし、おまえさんたちも自分の本当のこころを失ってしまい、何らかの固定観念によって判断しているだけではないか。そのことに気づいていないだけだ。
と言いまして、
―――わはははー。
と大笑い。
そして、どこかに行ってしまいました。
本来、世界中のひとびとは親兄弟のようにお互いを尊重しながら、心配しあわなければならない。それが「仁」の意義である。そういう人としての本来の心が持っているべき惻隠(相手を思いやる心)の機能を、おまえたち隠逸者は忘れてしまっているのではないか。
と言いたいようです。
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明の新吾先生・呂坤「呻吟語」巻一より。もちろん原文は「憂世者」の新吾先生の立場で「忘世者」に話しかけているのですが、肝冷斎から見ると話しかけられていることになるのである。「うるちゃいでちゅねー」という感じですよね。
隠逸する前に言ってほしかったなあ。一度隠逸しちゃったらこちらの世界からは本当のことがよりよく見えるから、もうそちらには戻りませんよ。逝ってしまった者が誰もあの世から帰ってこないのと同様に。