疲れてまいりました。まだ明日もあります。そろそろ夏バテになりかけていて、卒してしまいそう。
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上杉謙信の卒したのは天正六年三月のことにございます。
その後、養子の上杉景虎と景勝が跡目を争うたのは大河ドラマ等で御存じのとおりでございましょう。
この時、両勢力とも武田勝頼に援兵を頼んだ。本来ならば勝頼は北条氏を挟んで縁続きの景虎に加勢するものと見られていたが、景勝、謀ごとして勝頼の寵臣であった長坂釣閑斎と跡部大炊助に使いを送り、
勝頼に黄金一万両、寵臣に二千両宛(づつ)を与えて加勢を乞ふ。
勝頼、一万両に目がくらんで景勝に加勢し、景虎を棄てたのであった。
―――ご縁続きの方を、金で売られたとは情け薄い・・・。
―――長坂や跡部ごときを御信頼になられるとは浅はかなり・・・。
武田の諸将が勝頼を見限りはじめたのはこれからであるという。
まず、勝頼の妹を娶っていた木曾儀昌が叛いた。
勝頼はこれを討たんとして、軍勢を信州諏訪へ進めたのであった。
このとき、武田家累代の重臣である小山田信茂もその陣中にあり、御宿(みしゅく)監物に贈るの詩、一首。
汗馬怱怱兵革辰、 汗馬怱々たり兵革の辰(とき)、
東西戦鞁轟辺恨。 東西の戦鞁(せんぴ)、辺に轟くの恨み。
世上乱逆依何起、 世上の乱逆は何に依りてか起こる、
只是黄金五百鈞。 ただこれ黄金五百鈞。
西域に産する汗血馬(のような軍馬)たちが急ぎ走る。戦いの時が来たのだ。
東と西からやってきた軍勢のいくさ太鼓の音が辺境の原野に鳴り響き、心は重い。
こんなふうに世の中がおかしくなってしまったのはなぜなのじゃ?
ただ、五百鈞ほどの黄金(を勝頼さまが受け取ったこと)のせいなのじゃ。
ついでに歌、一首。
砂金(すながね)を一朱もとらぬわれらさへ薄恥をかく数に入るかな
(砂金を半両ほどももらっていないわしらも、(勝頼さまにつきしたがっているので)世間様に対して少々恥ずかしいグループに入っているのだなあ。)
御宿監物返しの詩、一首。
甲越和親堅約辰、 甲越の和親、堅く約するの辰(とき)、
黄金媒介訟神恨。 黄金媒介して神に訟ふるの恨み。
倍臣屠尽平安国、 倍臣屠り尽くす平安の国、
可惜家名換万鈞。 惜しむべし、家名の万鈞に換ふるを。
今や甲州と越後の和親は堅固に結ばれた。
それは(義や情でなく)黄金によって取り持たれものであり、神霊に平を訴えるひとびとの怨恨が残った。
そむく者たちはこの平和な国を全滅させることであろう。
惜しいことではないか、先祖伝来の名高い武田の名を、一万両の黄金と引き換えてしまったとはなあ。
ついでに歌、一首。
薄恥をかくはものかはなべて世の寂滅するも金の諸行よ
(少々恥ずかしいことぐらいは大したことではないぞ。この世で滅んで行くものたちは、みな金に目がくらんだせいなのだからなあ。)
長坂、跡部の両寵臣は、この後も邪悪の限りを尽くし、ついに武田家を滅亡せしめたのである。
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・・・小山田信茂はその後、勝頼を裏切ってノブナガさまに付いたが、武田滅亡の後、累代の主君を裏切った罪に問われて善光寺で斬られた。
湯浅常山(湯元禎)「常山紀談」巻四より。
常山・湯浅新兵衛は岡山藩士、徂徠派の儒者であるが、日本史に詳しく、また武術を善くして剣と槍については奥義を極めたという。「紀談」は常山が戦国の世の武士の言行七百余話を集めたもの。元文年間(1736〜41)より明和年間(1764〜72)まで、数十年かけて書かれ、その死(安永十年(1781))の後公刊された。幕末から明治にかけて大ベストセラーとなり、これにインスパイアーされて「名将言行録」などが編まれ、これらにより日本人民の戦国時代観が形作られていったのである。
武田の武将のエピソードを引きましたのは、当時の武士はヘタながら漢詩など作っていたのだなあ、と理解いただくためで、離合集散甚だしきひとたちの末路について教訓を垂れようと思ったのでありませんので、念のため。