平成24年5月13日(日)  目次へ  前回に戻る

 

昨日は早めに爆睡状態に入りましたので、更新できずでちゅう。今日はがんばって更新いたちまちゅう。

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清・康熙初年(十三年、1674のことである)に呉三桂三藩が反乱を起こしました。

その征伐のときのことでございます。
討伐軍が南征すると、ある山中の道に巨大なヘビが横たわっていた。

其大如甕、長二十丈。途広十丈、将頭尾蟠転双畳当路。

その大いさ甕の如く、長さは二十丈。途の広さ十丈、頭を将き尾は蟠り、転じて双畳して路に当たる。

その太さはカメが転がっているぐらいあり、長さは60メートルを優に超えておった。道の幅は30メートルぐらいであったから、頭をこちらに向け、尻尾はとぐろを巻いていたが、それでも二重に折り重なって道路を行くものを阻んでいたのである。

清代の一丈は3.2メートルぐらいです。

「行け」

「あい!」

先遣隊はこの蛇を押しのけて軍勢の通過する道を開くべく、隊伍を組んで蛇に近づいた。

すると、

ぷしゅう

蟒即口吐毒気、将人吸入口中、如蝦蟇呑刺蝥然。

蟒は即ち口より毒気を吐き、人を将いて口中に吸入すること、蝦蟇の刺蝥を呑むが如し。

大蛇は口から毒の霧を吐き出し、これによって兵士らを無力化すると、今度は彼らを口の中に吸い込んで食べてしまった。それは、まるでガマガエルが蚊や虻の類を呑みこむようなものであった。

「次!」

「あい!」

次の分隊も武器を手に蛇に近づいたが、

ぷしゅう

やはり毒にやられて無力化し、そのまま操り人形が糸を手繰られたかのように蛇の口の中に吸い込まれて行った。

「むむ・・・、なんというやつじゃ」

小隊長はほかの隊員にしばらく待機を命じた。そして、一計を案じ、周囲の森から枯れ枝を取ってこさせると、これを組み合わせた上に軍服を着せて兵士の案山子を作らせると、組まれた枝の間に

火薬団

を包みこんだ。

以紙條做薬線、穿之紙端。

紙條を以て薬線と做し、これを紙端に穿つ。

紙のこよりを長く作ってこれを導火線にし、火薬団を包んだ紙の端に穴をあけて挿しこんだ。

そして他の兵士らを下がらせ、自ら

点火、用長竿推近其身。

火を点じ、長竿を用いてその身を近くに推す。

導火線に火をつけ、長い竿の先に案山子を載せて、蛇の方に近づけた。

はたして、蛇は

ぷしゅう

と案山子に毒霧を吹きかけ、ついで案山子を吸い込み、

呑入腹中。

呑みて腹中に入る。

腹の中に呑みこんだ。

「よし、さがれ! さがれ!」

小隊長は隊員たちを木陰に退避させ、自らも巨木の根元に倒れ込むように逃げ込んだ。

と・・・・

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

少頃、山崩地裂、響振数十里。

少頃、山崩れ地裂け、響き振るうこと数十里なり。

ほんのしばらく後、すさまじい轟音が響き渡り、山崩れや地割れを起こし、周囲数十里(一里=600m弱)の地が揺れ動いた。

火薬が大爆発したのである。

兵士らがすさまじい爆風から起き上がって土埃の中を確認すると、

蟒洞腹而死。

蟒、洞腹して死せり。

大蛇のやつは、腹に穴があいて死んでいた。

こうして、つつがなく部隊は進軍することができたのである。

しかし、小隊長は案山子を操作して大蛇に近づいたときにわずかながら蛇の毒霧を浴びていた。このため、

病発七日而没。

病発して七日にして没す。

病を発症して、七日の間苦しんだ末に亡くなったのであった。

その大胆・智略・勇猛、まさに満州武人の鑒である。彼の名は伝わらぬが、莽将軍(「うわばみ退治の部隊長」)の武功は今に伝えられて彰かだ。

呉三桂はこの戦いの間、多くの幻術師を用いて征討軍を苦しめたから、この大蛇もその術の一つであったのであろうか。

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清・東軒主人「述異記」巻上より。

今日はいい天気でした。これから先、我が生にこんないい日がどれぐらいあるのかを考えれば、今日のような爽やかな天気の日にきれいさっぱりとこのヘビの毒なんかでおさらばしてしまえばよかったのかもなあ。

 

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