だめだ。天気がいい分、こころがすさむぜ。
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「韓蛾ねえたま、お元気でちゅか?」
「あら、童子・肝冷斎ちゃんね、お入りなさいな」
おいらが声をかけまちゅと、韓蛾ねえたまは一曲練習中だったみたいでちゅが、琵琶を弾く手を止めて、おいらをお部屋に招き入れてくれまちた。
(うふふ・・・。童子の恰好をしているので、おんなのひとと二人きりにもなれるってわけだ・・・)
「なにニヤニヤしているのよ、肝冷斎。何かいいことあったのかえ?」
「い、いいえ。一世・肝冷斎がこの間からまた居なくなってちまったので、おいらもいろいろ大変なんでちゅよー」
といい加減な対応をしておりましたとき、ひゅう、と心地よい風が吹いてきて、部屋の簾をふわふわと揺り動かし、表門から玄関先に続いている竹の叢がさわさわと鳴った。
「―――あのひと?」
と一瞬だけ、韓蛾ねえたまは真顔になり、それから遠いところを見る目をしたが、
「そんなはずないわよね。もう・・・年も前のことだもの・・・ふふ。」
すぐにいつもの笑顔にお戻りになりまちたー。
(ねえたま、まだあの人のことを・・・)
と思ったが、ここは子どものふりをしておかねばなりませんので、
「どうちたの、ねえたま、何だかさびしそうでちゅね。おいらがひざまくらでもちて、慰めてあげまちょうか?」
と無邪気に言いまちた。
「あはは、いいよ、肝冷斎、心配しなくても。そうだ、心配してくれたお礼にさっき練習していた曲を聴かせてあげるよ」
(ち。こども扱いか。まあ、でも韓蛾ねえたまの歌を無料で聴ける、というのだから、これはこれで役得よ)
「あい、お願いちまちゅ」
おいらはいい子ちゃんのふりをちて、正座ちまちた。
ねえちゃま、琵琶を弾じつつ、歌いて曰く、
開簾風動竹、疑是故人来。(A) 簾を開きて風は竹を動かす、疑うらくはこれ、故人の来たれるかと。
徘徊花上月、空度可憐宵。(B) 徘徊す、花上の月、空しく度(わた)るは可憐の宵なり。
簾をゆらゆら揺らした風が竹の葉ずれもさやさや起こす。もしかして、懐かしいあのひとの訪れか・・・。
うろうろと夜の庭をさまよううちに、花の向こうの月は隠れていく。こんな素敵な宵なのに、わたしはただ一人。
「これって宋の「石林詩話」から採ったんだけど、最初の二句(A)と後の二句(B)が見事に対聯みたいになっているのよね。でも、まったく違うひとの作品を引っ付けただけらしいんだ」
「ふむう。(A)は李君虞の詩でちゅね。
ただ、もともとは六朝のころの古いうたに、
風吹窗簾動、疑是所歓来。 風吹きて窗の簾動きぬ、疑うらくはこれ、歓ぶところの来たるかと。
風がゆらゆら窓のすだれを揺らかしたから、あたいはあんたが来てくれたと思ったんだ。
あるいはこれも六朝期の柳ツの
颯颯秋桂響、非君起夜来。 颯々(さつさつ)として秋桂響く、君が起ちて夜に来たるにあらずや。
秋の夜、さわさわと桂の枝が鳴りました。・・・あなたが夜更けに来てくれたのではなかったようだ。
あるいは同時期の詠み人知らず、
待月西廂下、迎風戸半開。 月を待つ西廂の下、風を迎えて戸半ば開きぬ。
拂牆花影動、疑是玉人来。 牆を拂いて花影動き、疑うらくはこれ、玉人来たれるかと。
西のひさしのしたで月を待っていた。風がかたりと扉を少しだけ開けていった。
垣根の花の影もゆらゆら揺れて、すてきなひとが来てくれた、と思ったのに・・・。
あるいは斉の謝眺の「故人を懐う」の詩、
離居方歳月、故人不在茲。 居を離れてまさに歳月、故人ここに在らず。
清風動簾夜、明月照窗時。 清風 簾を動かすの夜、明月、窗を照らすの時。
離れて暮らしてもう何年か、あのひとはここにいないのさ。
さやさや風がすだれを動かす夜べ、月はきらきら窓から覗く。
などなどがありますので、これらと同じ心を歌ったものでありまちょう」
「へー、肝冷斎、すごいね、まるで大人みたい」
「えへへ」
これはすべて宋の王勉夫が「野客叢書」(巻十七)で考証しているものなのでちゅ。おいらは懐に入れてカンニングペーパーとしてちらちら見て答えただけなのだ。
「じゃあ、(B)の方は誰の句なの?」
と問われて、
「ええーと・・・」
これは困りました。「野客叢書」では、(B)の方については、
又花月徘徊之語、亦出於古詞意。
また「花月徘徊」の語も、また古詞の意に出づ。
一方、(B)の「花の向こうの月を見ながらうろうろする」ということばも、やはり昔の歌と同じ心をうたったものだ。
としか書いてなかったのです。
おいらは困ってもじもじし、ついつい涙ぐんでちまいまちた。
「あ、泣いちゃってる? 子どもに聴いてもわかるはずないよねー、ごめんね、肝冷斎」
と、韓蛾ねえたまはおいらの頭を撫で撫でしてくれたの。
ねえたまのお手ては柔らかく、お袖はすてきな匂いがちたの。
おいら、子どもでよかった。