東海から西は黄砂がひどかった。空が紫色でした。昨日は黄砂の降る町を歩いてきました。
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宋の徐忻というひとは
有唐人風気。
唐人の風気あり。
唐代の詩人のような気分を持ったひとであった。
あるとき高楼の上で、次のようにうたったという。
剣去池空一水寒。 剣は池を去りて空しく、一水寒し。
游人到此凭欄干。 游人ここに到りて欄干に凭(よ)る。
年来是事消磨尽、 年来この事、消磨し尽くし、
只有青山好静看。 ただ青山のよろしく静かなるを看る有るのみ。
剣は龍に化して淵から飛び去り、以来この地にはただ寒々と川が流れるだけだ。
たび行くわしはこの地まで来て、むなしくおばしまに倚って風景を見るばかり。
長い間、これら(わしの青雲の志も淵にあった龍の住み処の跡も)ずるずるとすり減らされてしまい、
今となっては青い山々の静かにたたずんでいるのが、心にしみわたるように眺められるわい。
―――こういうのが「唐人の風気」というものなのでしょう。
ところで、この徐忻のうたに、ひとりの女が合わせてうたったというのである。
女は部屋から出て、徐忻のかたわらに寄り添うと、詩の末聯を歌い直した。
年来万事灰人意、 年来万事 人意を灰(け)すも、
只有看山眼不枯。 ただ山を看るの眼の枯れざる有るのみ。
長い間経てばどんなことでも人の志をむなしくしてしまうもの、
けれどあなたの山々のたたずまいを見つめる目は、まだ枯れずに残っているのでしょう。
「あなたはその目であたしを見てよ。青雲の志を消磨してしまって、もうこの地にのこってあたしと暮らせばいい」
という意である。
語工于徐。
語、徐よりも工(たく)みなり。
ことばづかいは、徐忻の詩よりも巧妙である。
その聯を聞いて、徐忻は女と目を合わせ、二人にこりと笑ったという―――
が、二人とも恋の道の達者たち、そのままおとなしく結ばれたともあい聞かぬ。
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世の中は広いので、こんなの読みたいひともいるかも、と思いまして。漢詩というのは感情を類型化して贈答しあえる、こういう詩だということですよ。詞・曲にいたればもっともっとそういうものなわけですが。「野客叢書」巻十四より。
ところで、都知事の尖閣買い取り宣言、サンケイや名高い東海新報などを除き、メディアがおもしろいように反対意見を書いていたのがオモシロかった。いい加減にせいよ。遠いシナ国から降りてくる、このわだかまりはいつの日にか消せるのだろうか。