平成24年4月21日(土)  目次へ  前回に戻る

 

二世ちゃんでちゅー。休みになりましたので、勉強いたしまーちゅ。

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「南史」を開き見るに、4世紀の劉宋の文帝のころ、主都・建業に近い玄武湖を干拓したことがあったが、このとき、湖の中から、何世紀か前の古墳が現れた。

於古冢上得一銅斗、有柄。

古冢上にて一の銅斗の柄あるを得たり。

古墳の頂上部分の表層から、銅製のひしゃく(柄付き)が発見された。

「いったい何時の時代の誰の墓であろうか」

帝は広く在朝の士に諮ったが、誰も知る者がない。

ようやくある人が、

「それは何承天に問うべきでございましょう」

と応じたので、帝は博識で名高い何承天を呼び出して、このことを問うた。

何承天、ことをうけたまわるや、即座に、

此亡新威斗。

これ、亡新の威斗なり。

「それは、いまはなき「新」の国(紀元前後に王莽が前漢から禅譲されて建てた国)の「威斗」(かざりひしゃく)にございましょう」

と答えた。

莽、三公亡者賜之。一在冢外、一在冢内。

莽、三公の亡者にこれを賜う。一は冢外にあり、一に冢内にあり。

「王莽は、宰相クラスの三公のどなたかが亡くなると、その死者に対してこの「威斗」を賜ったのでございまして、二つでセットになる。一つは墳墓の外に置き、もう一つを棺の中に置くしきたりとなっておりました。

今となりましては、そのことの呪術的な意味はわかりませぬ。あるいは再生のしるしであったか、あるいは亡霊を地中から出さぬよう呪(まじな)うものであったか・・・。

さて、「新」の国はたかだか十数年で滅びました。その間、三公の位に登った者は数多くはございません。

時三公居江左者惟甄邯。必邯之墓。

時に三公の江左に居る者、これ甄邯(しん・かん)のみ。必ず邯の墓ならん。

この時期、三公の位にあって江の東側であるこの地域に葬られた者といえば、大司徒(最高裁長官)の甄邯(しん・かん)のみでございます。おそらくはこの墓はこの甄邯のものでございましょう。

それにしても・・・」

何承天はじろじろとあたりを見回して、

「このことを答えられる者が陛下のお側にお一人もいらっしゃらないとはのう・・・、なんというかのう・・・」

と言うたとか言わなかったとか。

ついで、その古墳を暴いてみたところ、

又得一斗、復有石銘、大司徒甄邯之墓。

また一斗を得、また石銘の「大司徒・甄邯の墓」とするあり。

墓室の中からもう一つ、ひしゃくが出てきた。また、石板が発見され、これには確かに「大司徒・甄邯の墓」と刻まれてあった。

時人、みなその博識に感服したという。

ところで、「漢書」「王莽伝」を閲すると、建国後11年にして、王莽は自ら長安南郊に視察して、そこで

鋳作威斗。

威斗を鋳作す。

「かざりひしゃく」を鋳造させた。

という記事がある。

この記事によれば、

威斗以五石銅為之、若北斗、長二尺五寸、欲以厭勝。衆兵既畢、令司命負之。莽出在前。

威斗は五石の銅を以てこれを為し、北斗のごとくして長さ二尺五寸、以て厭勝せんとす。衆兵すでに畢(おわ)りて、司命をしてこれを負わしむ。莽出づるに前にあり。

「かざりひしゃく」は、五石の銅を原料にしてこれを作る。形は北斗七星を模し、長さは二尺五寸で、これは魔除けになる、という考え方であった。(皇帝の行列には、魔物を祓うために)多くの武器が列をなして並べられるが、その一番最後に、司命官(祭礼をつかさどる)がこれを背中に荷って、皇帝の車のすぐ前を行くことに決められていた。

当時(新の時代)の一石は20リットル。したがって、「五石」は100リットル。(ちなみに現代日本では一石=十斗=百升=千合=180リットルになります。)

また、新の一尺は23センチ。二尺五寸は60センチ弱。

この「威斗」の使い方はこの記述によって明らかであるが、これと玄武湖で発見された「威斗」とが同じものであったのか否か、もはや判然としない。

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宋・王勉夫「野客叢書」巻十三より。

ああ、おもしろい。こういう考証物を読むのは人生の最大級の喜び。ワクワクして興奮して、エロースにさえ似た悦びを感じてしまいます。ハアハア(←喘ぎ声)。(え? みなさんは感じないの?)

このほかにも、新の時代の「候鉦」(大気の状態を調べるため?の鐘?)という銅器についても考証をしてくれておりますが、あまりにおもしろすぎてハアハアしてきて、二世・肝冷斎みたいなコドモには毒なので、また今度にいたちまーちゅ。

 

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