平成24年4月6日(金)  目次へ  前回に戻る

 

今日はうちの健太がでかいことやってくれたんですわ。おおありがたや。

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ところで、こんな気分のいい日にこんな気分の悪いことをいうのは気が退けるのですが、世の中にはいまだに蜀漢の諸葛亮

「千古の英雄」

「天才軍師」

と思っているだけでなく、言葉にするやつがいるのでびっくりします。
おいおい、

●白羽扇を手にし道士姿で軍を率いるのは、宋代までは周瑜の姿として伝えられてきたもので、明代に「演義」が作られる過程で数多くの周瑜伝説を諸葛亮に付け換えた際に大軍師・諸葛孔明の服になっただけだ、ということを、おまえさんは学校で習わなかったのかね?

●亮は三国最大級の戦略家・魯粛の「南北二分論」に基づく四川・江東同盟策を理解できず、江東の孫氏政権(後の呉国)との外交政策を誤って同盟を破壊してしまった。そこで持ち出したのが「天下三分論」という虚構の論である、ということ、常識レベルに属する。
●用兵家としては部下同僚の献策についに有効な対応ができず、凡庸といわざるを得なかったことは、正史のすでに示すところ。

●内政においてはどうであったか。

(ア)同時代人の郭仲の評を聞くに、

亮、刑罰峻急、刻剥百姓。君子小人、咸懐怨歎。

亮、刑罰峻急にして百姓を刻剥す。君子小人、みな怨歎を懐けり。

亮は刑罰のことが厳しく、税収の追及も急迫で、人民たちはその刻薄な政治によって富を剥ぎ取られた。当時、地位ある者もしもじもも、みな亮の政治を怨み、歎きの声をくすぶらせていた。

と。

(イ)しかし、諸葛亮の主君である蜀の先主(劉玄徳)は、

操以急、吾以寛。操以暴、吾以仁。操以譎、吾以忠。毎与操反、事無不済。

操急を以てすれば吾寛を以てせん。操暴を以てすれば吾仁を以てせん。操譎を以てすれば吾忠を以てせん。つねに操と反すれば事の済まざる無からん。

曹操どのが急迫な態度をとるならわしは寛広にやるぞ。曹操どのが無茶苦茶するならわしは優しくするぞ。曹操どのがウソたばかりでやるならわしは真心でやるぞ。

とにかく、いつも曹操どのの逆をやっておけばうまく行くはずじゃ。

と言っておった。

主君の先主が峻厳であることをこれほど嫌がっていたのだから、

不応刻剥之甚而使君子小人皆至怨歎之理。

刻剥の甚だしくして君子・小人みな怨歎するに至らしむるの理あるべからず。

刑罰のことが厳しく、税収の追及も急迫で、人民たちはその刻薄な政治によって富を剥ぎ取られ、地位ある者もしもじもも、みな亮の政治を怨み、歎きの声をくすぶらせていた、というほどのことは無かったのではないか。

ということも考えられる。

(ウ)しかしながら、亮は張子布が孫権に彼を推薦したとき、その推薦を断ったことがあったが、その際、その理由として、

孫将軍能賢亮而不能尽亮。吾是以不留。

吾、是を以て留まらず。

孫将軍さまはわたし(亮)を賢者として扱ってくださるが、わたくしにやりたいことをやり尽くさせてはくれぬ。(劉玄徳さまはそうではない。)だから、わたしは江東に留まるつもりにはなれないのだ。

と言うておったというのである。

これを考え合わせれば、蜀先主は自分は峻厳であることを嫌がったとしても、亮がそうしたいなら亮にやりたいようにさせたのではなかろうか。

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宋・王勉夫「野客叢書」巻四より。

諸葛亮は恐ろしい峻厳な法家だったのでございますよ。後世の学者どもは亮の書になるという前後の「出師の表」の名文なるを以て亮を仁義の人と誤解してしまった。

どうしても誰も彼も、コトバづかいばかりの上手な人間がそんなに好きなのかね。あるいはメディアの示す像を真実と信じ込む。これもまた、古より今に至るまで、何度も何度も同じ愚を犯し続けるのか。

嗚呼、已んぬる矣。

ちなみに、

○○はよく亮を賢とするも亮を尽くすあたわず。

○○さまはわたし(亮)を賢者として扱ってくださるが、わたくしにやりたいことをやり尽くさせてはくれぬ。(だから、わしはそうさせてくれる××さまに仕えるのだ。)

は一応名言ということになっているので、覚えておきましょう。

 

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