平成24年2月9日(木)  目次へ  前回に戻る

 

眠い。少し暖かくなってきたのはうれしい限り。

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おもしろい話柄はいくらでもあるのです! ああおもいしろいなあ、わしの知っていることは。

しかし昨日の続きを終わらせておかないとキモチが悪いので、今日は昨日の続きをしておきます。

誰把橋名呼万代。  誰か橋名を把りて万代と呼ぶ。

妾心不易与橋同。  妾心易(か)わらざること橋と同じ。

どなたが名付けたこの橋の名を、「万代」と。

あたいの気持ちは変わらない、橋の名前と同じだよ。

これは幕末〜明治の詩人・鱸松塘「新潟竹枝」の起句・承句でした。

続きは、

郎意却如橋畔柳、  郎が意は却って橋畔の柳の如く、

纔吹綿去又随風。  纔(わず)かに綿を吹けば去りてまた風に随わん。

ところがあんたときたら、まったく橋のたもとの柳と同じぢゃわいな、

わずかに風が吹いたら柳絮(わた)のように飛び去り、風のまにまにどこに行くやら。

以上。おしまい。

愉快な詩でちゅねー。

「竹枝」(ちくし)とは、古典的宮廷歌謡「楽府」(がふ)の一種で、@男女の間のことA土地の風俗などを詠うものである。もと湖南の民謡であったが、唐の劉禹錫がこれにならって連作「竹枝詞」を作ったことに始まるという。

また、

八千八水帰新潟、  八千八水 新潟に帰し、

七十四橋成六街。  七十四橋 六街を成す。 (柏木如亭「新潟」)

と謳われましたる水の都・新潟は、江戸後期〜明治にかけて、日本海舟運の重要港湾を抱えた我が国有数の巨大都市であった。じゃによって、もちろん遊里も発達しておりましたので、おとことおんなのらぶげーむもたくさん実施されたであろう。作者の鱸松塘は安房のひと、梁川星巌の門下、明治三年に上京して七曲吟社を起こす。各地に旅を好んだため、遊歴詩(ご当地ソング)の佳作が多く、また全国にその門下が広がった。自ら「香奩体」(こうれんたい。女性の心になって歌った詩。「奩」(レン)とは女性の持つ小物入れの箱のことじゃよ)も得意、と豪語したひとであった。

松塘の同題(「新潟竹枝」)の詩をもう一篇掲げておく。

秋生七十二紅橋、  秋は七十二紅橋に生じ、

垂柳垂楊緑未凋。  垂柳垂楊、緑いまだ凋まず。

今夜期即何処好、  今夜期するにいずれのところか好ろしき、

河楼凉月照回潮。  河楼の凉月、回潮を照らす。

 秋は七十二も赤い橋のあるこの町に、生まれたて。

 だらりと垂れた柳と楊、どちらもまだ緑の葉は青いまま。

 今宵あなたとあいびきの、約束の場所はどこにしよ?

 川べりの高楼にして、さやかな月の光の下、二人で満ちはじめる潮を眺めよう。

「日本名勝詩」より。

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ところで、「鱸松塘」は何と読むのかな?音読みすれば「ろ・しょうとう」だが・・・→こちらへ

 

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