この国の「新年」とは、資本の論理ばかりで突き固められた「シンボル」に過ぎない。だが、あんまり本当のことばかり言っていると、みなさんも困るでしょう。したがいまして、
新年おめでとうございますなあ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
正月で、といいますか、休みでヒマなので普段あまり読まない「孝経」でも読んでみましょう。なお、「孝経」には「今文孝経」と「古文孝経」がありますが、読んだのは「今文孝経」をもとにして唐の玄宗皇帝が自ら定めた「御註・孝経」である。「御註・孝経」にはさらに最初に編まれた「開元本」と後に編まれた「天宝本」があるのであるが、今回のは天宝年間に編まれ、長安城中の石に刻まれたという「天宝本・石台版」である。
1. 開宗明義章(話始めの「ト書き」であり、全体の意義を明らかにする)
家でごろごろ、ひまそうにしていた孔子が、侍っておった曾参に言うた。
「偉大なる古代の王者たちは天下を教えるやり方というのをわきまえておった。そうすれば人民は和らぎ睦み、統治者と被治者は憎しみあうことがない。おまえ、どうやるか知っとるか」
曾参は座っていた座布団を外してすわりなおし(「避席」)、
「わしはおろかにございます(「参、不敏なり」)。どうしてそんなことを知っておりましょうか」
「うほほ。「孝」は徳の本であり、教化はそれからはじまるのだ。座り直しなさい、曾参よ。わしはおまえに教えてやろう。
身体髪膚受之父母、不敢毀傷、孝之始也。
身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり。
肉体、髪の毛、皮膚、これらはすべて父親と母親からもらったのである。それを傷つけないこと、それが「孝」の基本なのだ。
立身行道、揚名於後世、以顕父母、孝之終也。
身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕かにするは、孝の終わりなり。
立身出世しまして世の中をみちびき、その名を若いものたちに知らせ、これによって「あの方の父上・母上はえらいものじゃ」と言わせること、これが「孝」の効果なのだ。
おお、孝というのは親につかえることにはじまり、ついで主君におつかえし、最後に自分がえらくなる、というものなのだ。「詩経」大雅・文王篇にいうではないか、
おまえの祖先のことを思い出せ、御先祖さまのよいところをさらに拡大するがよい。
と。
―――このあたり、かつての「修身」教育でもてはやされた一節です。「身を立て名を揚げ、ヤヨはげめよ」ですね。はじめて聴いたとき、「ヤヨ」というのが故郷を離れて立身出世しようとしているそのひとの名前かと思った。
2. 天子章(天子の孝行を論ず)
人民どもに「天子さまの親が悪いからあんなやつが天子さまになったのだ」と批判させないようにし、人民どもにマネさせること、これが天子の孝である。
3. 諸侯章(諸侯の孝行を論ず)
驕らず、節制して、富貴、社稷を長く守るようにするのが諸侯の孝である。「詩経」小雅・小旻篇にいうではないか、
戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷。
戦戦兢兢として深き淵に臨むがごとく、薄氷を履むがごとくせよ。
びびりおののくこと、深い淵の岸の上にいるように、あるいは薄い氷の上にいるように(して、今の地位を守りなされい)。
と。
4. 卿大夫章(上級の貴族の孝行を論ず)
古代の偉大な王者たちが定めた決まりを墨守し、口に変なことを言わず、からだは変な行動をせず、
言満天下無口過、行満天下無怨悪。
言は天下に満つるも口過無く、行は天下に満つるも怨悪無し。
世の中に「あのひとがこう言うた」と宣伝されても批判されず、自分の行動で世の中が変わっても誰にも怨まれない。
そうすれば、おまえの先祖の領地を守ることができるだろう。
5. 士章(都市国家の政治にかかわる自由市民の孝行を論ず)
父に敬愛を以てつかえることが大切である。その気持ちで都市国家を代表する主君につかえるのが「忠」である。その気持ちで地域共同体の指導者につかえるのが「順」である。忠順を失わずに目上のひとたちの指導を仰ぎ、その地位を失わないのが自由市民の孝である。
6. 庶人章(その他の都市国家の構成員の孝行を論ず)
自然のめぐみによって利益をあげ、おのれの身を謹み、使用するものを節制しながらおやじどのとおふくろさまを扶養する。これが一般人の孝である。
以上、
自天子至於庶人、孝無終始、而患不及者、未之有也。
天子より庶人に至るまで、孝に終始無く、而して患い及ばざる者はいまだこれ有らざるなり。
天子さまから一般人民に至るまで、孝行の基本も効果もなしに、わざわいが自分に降りかからなかった者はひとりとしていないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下18章まであとまだ12章もあるので、めんどくさくなってきたのでもうやめて、下らんバラエティでも見ますわ。続きは例会のときに。一月の例会は何日だっけ。