最近、松屋のブタ生姜焼き定食ばかり食うております。あんまりアルコールが得意でないので「一人晩飯」は苦痛ではないのですが、一人だと困るであろうひとも世の中にはいるようです。たとえば以下のごとし。
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昨日東楼酔。 昨日、東楼に酔う。
還応倒接離※。 またまさに「接離」を倒(さかし)まにすべし。
阿誰扶上馬、 阿誰(あすい)、馬に上るを扶くるや、
不省下楼時。 省せず、楼を下るの時。
※本当は「離」の上に「㓁」(あみがしら)をかぶせた文字。「リ」。「接離」は「帽子」「かぶりもの」の意である。
昨日は東楼で酔いました。
どうやらまた、帽子をさかさまにかぶって帰ってきたようじゃ。
昨夜は馬に乗るとき、誰が助けてくれたのやら。
楼を下ってきたときのことを、何も思い出せませんのじゃ。
これは八世紀のひとが言っております。誰かに助けてもらわなかったら、馬に乗れなかったのです。一人だったら困ったでしょうねー。李太白「魯中都東楼酔起作」(魯の中都の東楼で酔って、起きたときのうた)(「李太白詩醇」巻五より)。
宋の滄浪先生・厳羽曰く、
尋常酔状皆如此。有意者以為不必説。説之政佳。
尋常の酔状みなかくの如し。有意者以て必ずしも説かずと為す。これを説くも政に佳。
ふつう、酔っぱらうとこうなる。意味のわかるひとは別に説明する必要はない。しかし、説明してもよろしい。
なかなか気の利いた解説ではありませんか。
さて寝よう・・・と思ったところで、気になりはじめました。
「阿誰」という言い方は、あまり見たことが無いのですが、これはいったいいつごろの言い方なのか?
これは三国時代の言い回しであるそうです。
本当かな?
本当ですのじゃ。
試みに「三国志」巻38・蜀志・龐統伝を見よ。
・・・劉備(蜀・先主)の蜀乗っ取りのときのことである。
成都まであと少しまで迫り、先主は涪の町で大いに酒宴を開いて君臣ともに楽しむこととした。
先主、酔うて龐統に向かって言う、
今日之会可謂楽矣。
今日の会、楽しきと謂うべきなり。
「今日は、楽しいのう、楽しいのう」
龐統、答えて曰く(これも相当酔っていたのではないだろうか)、
伐人之國而以為歓、非仁者之兵也。
人の國を伐ちて以て歓を為す、仁者の兵にあらざるなり。
「はあ? ひとさまの國に攻め込んでおいて歓楽の宴を開く。これのどこが仁あるひとの軍のやることですかなあ?」
「あん?」
先主、怒り爆発して、
「なにをいうか!
武王伐紂、前歌後舞、非仁者耶。卿言不当宜速起出於是。
武王紂を伐つに、前に歌い後の舞う、仁者にあらざるか。卿の言は当たらず、よろしく速やかにここより起ちて出ずるべし。
周の武王が殷の紂を討伐したとき、殷の都を攻める前に歌を歌い、勝ったあとには喜びの舞を舞ったというではないか。武王は仁あるひとではないか! ああ、もういい、おまえの言うことは間違っとる、すぐにこの席から出て行け!」
「ぶぶう」
龐統はぐずぐずとしていたが、やがて退席した。
先主、しばらく経って反省し、ひとをやって龐統を呼び戻す。
龐統は悪びれた風情も無く現れて、また
飲食自若。
飲食自若たり。
何ごとも無かったかのように飲み食いしていた。
先主、耐え切れず、龐統に言うに、
向者之論阿誰為失。
さきの論は阿誰の失と為すや。
「さきほどの口げんかは、誰が悪かったのかのう」
龐統、一礼して答えて曰く、
君臣倶失。
君臣ともに失せり。
「君主・臣下、どちらも悪かったのでしょうな」
先主、大いに笑えり。―――――
度量広く、教養もあるが、意外と小心で子どもっぽい、という蜀の先主・劉備のひととなりが彷彿といたしますエピソードですなあ。
が、その直後に、
進囲雒県。統率衆攻城為流矢所中、卒時年三十六。
進んで雒県を囲む。統、衆を率いて城を攻むるに流矢の中するところとなる。卒時、年三十六なり。
進撃して雒県を囲んだ。そのとき、龐統は部隊を率いて城壁を攻めていて、流れ矢に当たって斃れた。死んだときの年はまだ三十六であった。
龐統が死んでしまいましたので、たいへん印象に残ります。
この印象深いエピソードの中に、下線のとおり「阿誰」(あすい)が使われておりました。
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また平日なのに言葉調べに夢中になっておそくなってしまいました。もういや。寝ますわ。