まだ水曜日ですわー。
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後漢に陳忠という法官がおりました。
後漢の刑法は厳しく、ささいなことで罪に問われることが多かったそうで、陳忠は後漢・安帝(在位107〜125)の初年に上奏して刑を緩くせんこと、特に宮刑の多用に反対することを訴えたひとであります。
彼の言として今に伝わる語がありまする。
穿窬不禁、則致疆盗。
穿窬(センユ)禁ぜざれば、すなわち疆盗(きょうとう)を致す。
穴をあけて入り込む空き巣狙いを取り締まらなければ、やがては強盗になってしまいますぞ。
疆盗不断、則為攻盗。
疆盗断ぜざれば、すなわち攻盗と為る。
強盗を捕らえてきちんと処断しなければ、やがては火つけ押し込みの強盗団をなしますぞ。
攻盗成群、必生大姦。
攻盗群れを成さば、必ずや大姦を生じん。
強盗団がいくつも集まれば、いつか国家にとってたいへんな敵となりましょう。
さすればわれらごとき司法官には、もうどうすることもできませぬ―――と。
陳忠のような寛刑論者でも取り締まりと刑の執行には、果断を要することを主張していたのである。
ひるがえって今のニッポンの行刑はなんたらかんたら・・・・
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「後漢書」巻76・陳忠伝より。陳忠はおやじが陳寵といいまして、こちらも有名な司法官であった。さらにそのおやじは陳咸といい、前漢末に律令の知識を以て尚書の地位にあった、ということですから、世襲の法律家であった。
この陳咸、王莽が漢帝国を簒奪する過程で、おのれに付き従おうとしないものを刑に問おうとするのを見ても、反対はしなかった。
しなかったが、
易称君子見幾而作、不俟終日。吾可以逝矣。
易に称す、「君子は幾を見て作(おこ)り、日を終うるを俟たず」と。吾、以て逝くべきなり。
易の「繫辞伝」には、
「君子は「きざし」を見て行動する。「きざし」を見たら、その日が暮れるのを待ってはいない(その日のうちに行動に移すのだ)」
と言われてある。わしはそろそろおいとませねばなるまい。
と言いまして、官を辞して郷里に帰ってしまったのであった。(「後漢書」同巻)
わしもこんな感じで行きたい、と思っておるんですわ。
そして、「きざし」はもはや有り余るほどあるんですわ。