平成23年11月4日(金)  目次へ  前回に戻る

 

明日は休み。うひゃひゃ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この世はすべて韓流ですからね。うまく韓流に乗れば韓国観光局から補助金が・・・mgmg

ということで、朝鮮の風雅なお話を。

李朝17世紀の咸鏡北道・慶源の高山の町。

一人の若い旅人が、高山の役場にやってきた。

役場の下人に問うに、

「ここにはわたしの友人の元命汝が赴任しているはずですが・・・」

しかし、いませんでした。

下人によると、元命汝はひと月に一、二度の宿駅管理のしごとが一段落すると、いつもぷいと近郊へ、彷徨うように旅に出てしまうのだ、ということである。

「あのひとらしいことですね」

旅人は苦笑しながら、携帯用の筆と墨壺を取り出し、壁に文字を書き始めた。

留詩以贈。

詩を留めて以て贈る。

命汝に贈る詩を書きとめていったのである。

詩に曰く、

我到高山駅、   我は到る 高山駅、

誰弾流水琴。   誰か弾ず 流水琴。

懐人不能去、   人を懐(おも)いて去るあたわず、

明月上遥岑。   明月は遥かなる岑(みね)に上りぬ。

 わたしは高山の役場まで来たが、

 流水の曲を弾いてくれるひとはいなかった。

 あなたのことを思えばなかなか立ち去ることができなくて、

 遠い嶺に明月が昇るころまで待っていたのだけれど。

「高山」の地名に「流水」という琴の名を引っ掛けて、「列子」の伯牙と鐘子期の故事を引いて、命汝と自分の友誼を喩えているのである。

「あの、だんなのお名前を・・・」

下人は問いかけたが、旅人は

「ああ、彼はわかっているから」

と取り合わずに、飄々と帰って行った。

数日して戻ってきた元命汝は、壁の詩を見ると、

「なんだ、壺谷が来ていたのか」

と頷き、

「どうして引き留めておいてくれなかったのだ?」

と下人を責めたということである。

―――壺谷・洪受疇、字は九言壺隠とも号す。南陽のひと。(1642〜1704)

清の國使が来朝したとき、

「この朝鮮の人物で、だれかシナで評判の高い者はおりますか?」

と訊ねたひとがあった。

使者は頷き、

「今、シナでは、韓流といえば、壺谷という画人の絵と、壺隠という詩人の詩が高く評価されておりますな」

と告げた。

訊いた人は驚き、

「それはどちらも九言ではないか」

とただちに壺谷を呼び出して宴席に連ならせると、シナの使者も

「まさか一人で詩画の両方をこのようによくするひとがいたとは思いませなんだわい」

と称賛した・・・・とかなんとかそういうひとです。

・・・・・・翌日、元命汝が役場に出て、帳簿を確認しながら壁に書かれていた壺谷の詩を口ずさんでいると、上司の李瑞雨に聞きとがめられた。

ことの次第を聞いた李瑞雨は、下人を呼ぶときのために手元に置いてある「節」(板)を「ばん」と鳴らすと、

九言詩才当為君輩儕流之冠。

九言の詩才、まさに君が輩の儕流の冠ならん。

「その九言くんの詩の才能は、きみたちのようなタイプの若者の中ではトップというべきじゃのう・・・」

そして、「節」の音を聞いて用事があるかと思って現れた下人を追い返すと、

「どうしてその洪九言をわしに引き合わせてくれなかったのじゃ?」

と命汝を責めたということである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

任大仲「水村漫録」より(洪万宗「詩話叢林」所収)。「水村漫録」は粛宗の二十一年(1694)に成ったということですから、だいたい同時代の記録ですね。

シナ流をこんなに紹介しててもハニートラップのかけらも仕掛けてもらえなかったのですから、韓国観光局の補○金も来ないだろうなあ・・・。

 

表紙へ  次へ