平成23年10月23日(日)  目次へ  前回に戻る

 

広島の実家から戻ってまいりました。東京駅に着いた途端、ぷしゅう、と鼻血噴いた。ティッシュで隠しながら帰ってきましたが、鼻血噴くなんて二十年ぶりぐらいか。頭はずっとじわじわするし、いよいよ切れたか、あるいは放射能の力か。何にしろ明日は会社は行けぬ。傀儡二号を出します。これは動きは遅鈍だし、よくさぼる傀儡ですが、致し方ない。

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今日のところは次のメモのみ。(やっぱり鼻血とか噴いてたんですかね、わたくしとは違う事情で)

重野成斎(鹿児島藩儒→東大教授。文政十(1827)〜明治四十三(1910))の人となりにつきて。いずれも牧野藻州(早稲田大學教授。1862〜1937)談。

その一

「重野七絶」といいて、重野成斎には、世人に勝るものが七つあったという。

曰く、学絶。(学問がとびはなれてできる。)

曰く、文絶。(文章がとびはなれてうまい。)

曰く、書絶。(文字がとびはなれて上手だ。)

曰く、碁絶。(碁がとびはなれて強い。)

五と六は今論ぜぬが、七がなかなか人に言えぬ。

曰く、好色絶。(とびはなれてスキなのじゃ。)

成斎の七十の賀のとき、杉浦重剛がウナギを贈った、というので、この話をしてやったら、

杉浦氏は、これを聞くやいなや、「シマッタ」と大声を発した。

その二

成斎は若いころ奄美大島に流されていたことがある。これは他人の妻を無理やりに犯したためである。

さらに、明治に入ってすぐのころ、修史館で各藩の歴史を定めるしごとをしていた際に、自らの主君の島津氏について、その祖先は蛮族であると言い出した。

島津公はこれを斬らんとしたが、これを押とどめてこと無きを得たのは黒田清隆であった。

黒田は、既に旧藩の世にあらず、今日において重野を斬ると問題が生ずる旨を上言し、あわせて

今後成斎の立身はさせないから、これにてご宥恕されたいと乞うた。

成斎が政官界に立身できず、帝大に身を置いたのはこれが理由であるという。

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と、三浦叶先生の「明治の碩学」(汲古書院、平成15)に書いてあった(ただし、引用は色つきの部分のみ。あとは適当に肝冷斎が要約・解釈した)。この本おもしろい。鹿児島のひとなら先刻ご承知のことなのでしょうけど。

 

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