平成23年8月20日(土)  目次へ  前回に戻る

 

ずいぶん涼しくなってきました。夜の空気が涼しく澄みはじめますと、月がきれいになってまいりますね。月がきれいになると「あのひと」のことを思い出します。

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世俗多言。

世俗多く言う。

世間の多くのひとが言っておりますね。

何を言うておるかといいますと、

李太白在当涂采石、因酔泛舟于江、見月影俯而取之、遂溺死。故其地有捉月台。

李太白は当涂の采石に在りて、酔いに因りて舟を江に泛べ、月影を見て俯きてこれを取らんとし、遂に溺死す。故にその地に「捉月台」あり。

李太白は長江下流域の当涂(とうと)・采石の町にいたとき、酔って舟を江に浮かべ、水面に映った月影を見て「あれを取るでおじゃる」と身を乗り出し、水に落ちて溺れ死んでしまったのだ。だから、その地には今(宋の時代)に「捉月台」(月をつかまえる高台)という地名がある。

へー。そうなんだ。地名まで残っているなら本当でしょうねー。

しかし、李白の少し後輩に当たり、その臨終に立ち会った李陽冰の証言によれば、

陽冰試絃歌于当涂、公疾極。

陽冰試みに当涂に絃歌するに、公の疾極まれり。

わたしが当涂の町に、琴を爪弾きながら旅してきたのは、ちょうど公(李白)の病が篤くなったころであった。

李太白はわしを病床に呼び寄せ、

草稿万巻、手集未修、枕上授簡、俾為序。

草稿万巻、手集するもいまだ修まらず、枕上に簡を授け、序をなさしむ。

厖大な草稿――自ら集めたのだがまだ完成していないやつ――を枕元でわたしに手渡し、

「ふ・・・。わしはもう長うあるまい。・・・おぬし、これに序をつけてくれたまえ・・・ゴフ、ゴフッ」

と言うたのだ。

――これは李太白晩年の詩を集めた「草堂集」の序に、なぜ自分がこれを編集したのかを説明する中で書いていることである。

これだけではございません。

同時代に李華が「太白墓志」を作っているが、その中で、

「李太白は

賦臨終歌而卒。

「臨終歌」を賦して卒す。

最期に「おしまいのうた」をうたってから、死んだ。」

と書いている。

酔っぱらって水中に落ちて死んだわけではないのである。

乃知俗伝良不足信。

すなわち俗伝のまことに信ずるに足らざるを知る。

これを見れば、世間で言っていることがほんとは信じることができない、というのがよくわかるであろう。

うははー。

李白と並び称される杜甫が「焼酎を飲んで牛肉を食ったのでそれが当たって死んだ」と言われているのも信ずることはできぬ。

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南宋洪容斎先生「容斎随筆」巻三より。

―――すなわち俗伝のまことに信ずるに足らざるを知る。

「それはそうだ」

とおまえさんは言うだろう。しかし、おまえさんも、もしかして

@   坂本竜馬は懐ろ手をしながら太平洋を見て、「小せえ、小せえぜよ」と言っていた

とか、

A   諸葛孔明は天才的な戦略家であった。(決して外交上の方針を誤って東呉の孫氏政権と対立してしまったり、硬直した用兵によって前線で決定的な失敗をしたりはしていない。)

とか、「まことに信ずるに足らざる」ことを信じてるんじゃありませんかねー。

うひひひひ。

 

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