「わしにも説教をさせるのじゃ」
と赤水先生・屠隆がやってきました。萬暦二十八年(1600)の七月か八月ごろです。先生はこのころ数えで五十八歳ぐらいではないかと思います。考えてみると、先生がこんなことを言っていた一か月後に日本では関ケ原の合戦をやっているのですね。
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赤水先生曰く、
天上両輪逐電、昼夜不休。
天上の両輪は電を逐(お)い、昼夜休(や)まず。
空の上の二つの輪っかは、電光を追いかけるように走り回って、昼も夜も休むことがない。
天上の両輪とは、もちろん太陽と月。日月のあっという間に過ぎゆくことをいう。
そして、
人間二鼠噛藤、刹那欲断。
人間(じんかん)の二鼠は藤を噛み、刹那に断たんと欲すなり。
地上でも二匹のネズミが、ひとのぶらさがっている藤のつるを齧りつつあり、間もなくつるは切れようとしているのだ。
人生の移ろいやすきを思わなければいかん。有意義な人生を送るためにも、また、誰にでもいつかは来る「その日」を心安く待つためにも。
―――二匹のネズミについて、補足する。
「大集経」という仏教経典がありまして、これによれば、
昔有一人、避二酔象。
昔、一人の二酔象を避くるあり。
むかしむかし。あるところに、一人のひとがおりました。このひと、二頭の酔っぱらった象に前後から襲われ、避けるところを探した。
地面に穴があいていた。
「ここに隠れよう」
彼は藤の蔓につかまって、その穴の中に身をひそめた。
ところが、そこは安全では無かった。
@ 有黒白二鼠噛藤将断。
黒白二鼠ありて、藤を噛み、まさに断たんとす。
黒と白の二匹のネズミがいて、この藤の蔓をかじっており、つるは今にも切れようとしている。
A 傍有四蛇欲螫。
傍らに四蛇有りて螫(さ)さんとす。
彼のまわりには、四匹のヘビがいて、彼に今しも噛みつこうとして身構えている。
B 下有三龍吐火、張爪拒之。
下に三龍有りて、火を吐き、爪を張りてこれを拒まんとす。
穴の底の方には三匹の龍がいるのだ。それらは火を吐き、爪をむき出して、彼が降りてくれば害そうと待ち構えているのだ。
其人仰望二象已臨井上、憂悩無托。
そのひと、二象のすでに井上に臨むを仰望し、托する無きを憂悩す。
彼は、いましも二頭の象が穴の真上に来たのを見上げ、どこにも逃げ場がなくて、どうすればいいのか悩んでいる。
アアッ―――、切れる、つるがいよいよ切れるう―――!
そのとき、
忽有蜂過遺蜜滴入口。是人唼蜜、全亡危惧。
たちまち蜂の過ぎて、蜜を遺(のこ)して口に滴入す。このひと蜜を唼(すす)りて、すべて危惧なし。
ぶうん、とハチが飛んできて、そのひとの口の中に一滴のミツを垂らして行った。彼はその甘いハチミツを舐めて、自分の置かれている危険な状況のことは忘れてしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・というのである。
二頭の象とは生活の苦しみ、黒白二匹のネズミとは昼と夜の時の過ぎゆくこと、四匹のヘビは病気・事故などの不慮の禍い、穴の底の三匹の龍は「死後の苦しみ」の比喩らしい。そして、ハチミツは富貴や名誉や官能の喜びをさすらしい。
ひとの人生とは、客観的に見てみれば、かようなものなのだ。
そのことに早く気づきなさりませい。
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「娑羅館清言」第50則。
「この穴の中のひとはKAN総理?」
「もしかしたら、テレビばかり見て韓流しているわれら亡国の民のことか?」
と思いましたが、人間はみんなこうなのだ、ということで、一安心。・・・ですよね、みなさんは。
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