明の時代から祝枝山先生が来た。
わしが「世の中のみなさんは、月曜日からたいへんですなあ」と言いますと、先生頷かれて曰く、
世途開歩即危機、 世途に歩を開けば即ち危機、
魚解深潜鳥解飛。 魚は深く潜むを解(よ)くし鳥は飛ぶを解くす。
欲免虞羅唯一字、 虞の羅を免れんとすればただ一字なり、
霊方千首不如帰。 霊方千首も帰るに如かず。
世間様の道を歩こうとすれば、そこかしこに危険なワナだ。
だから魚は淵の底深くに潜むことを覚え、鳥は空飛んで逃げることを覚えた。
かりうどのかすみ網から逃れようとすればただ一言、
どんな妙薬の処方箋より、「帰る」にしかぬ。
この「帰る」は職を放り出して帰郷することをいう。
「しかし、たとえ生計が立ったとしても、いなかに帰ってもイヤなことばかりですからなあ」
いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。(萩原朔太郎「悲しい月夜」(「月に吠える」所収))
とくちずさむと、先生は
「そうかもね」
と言うた。
そこでわしが
詩が常に俗衆を見くだし、時代の空気に高く超越して、もつとも高潔清廉の気風を尊ぶのは、それの本質に於いて全く自然である。
というと、先生は
詩を作ること久しくして、益々詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。(「青猫・序」)
と嘆息した。
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だめだ。スランプだ。もう寝ます。
の