ああ。ハラがつかえて苦しい。でぶはつらいのです。
道を歩いていると、
「あのひと、チョーヒノーマン(あるいはノーマンチョーヒ)だわね!おほほほ」
「あははは、まったくだ、そういわれても何の意味かわからないだろうけどね、ああいうひとには」
と読書人階級出身らしいかっこいい男女のわしを嘲り笑う声がする。
読書人階級ではなくともそれぐらいの言葉の意味はわかりますぞ。ねえ、みなさん。
え? ええー? ご存じない?
というひとがほんとにいるといけませんので、解説しておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北斉の末、武成帝(在位561〜565)の第三子で、後主(北斉最後の皇帝。在位565〜576)の同母弟である瑯琊王・高儼はまるまると太った立派な体格をしていたが、その挙措軽妄で、年十四のとき、侍中の馮子jに唆されてクーデタの盟主に担ぎ出され、数百の兵を率いて宮廷に押しかけた。
このとき、帝が急ぎ救いを求めたのが、國の柱ともいうべき重臣・斛律光である。
光は知らせを受けると、掌を叩いて大笑いし、
「子どもが軍隊をおもちゃにしておるだけです。大騒ぎするほどのこともありますまい」
と、帝に自ら宮兵を率いて反乱軍を出迎えるように勧めた。
帝も少年の年頃であったし、もともと惰弱な性質であったから逡巡したが、
「もちろんわたしもまいります」
と光に言われて、ようやくその言に従ったのであった。―――
城門のところで出迎える帝とその護衛兵、さらには斛律光の姿を見た反乱軍は、瞬く間に壊乱してしまった。
光は帝に、乱兵の中に立ちすくんでいる瑯琊王に向かって、
「儼よ、何をしているのか」
と呼びかけさせた。
それでも瑯琊王は放心したように動かなかった。
光は乱兵どもを何の苦も無くかきわけて、ずかずかと王のところに歩み寄り、
天子弟殺一漢、何所苦。
天子弟一漢を殺す、何の苦しむところぞ。
「天子の弟が、一人や二人殺したところで、何を悩むことがございましょうや」
と声をかけて、その手を握り、帝の前まで引っ張って行って、
瑯琊王年少、腸肥脳満軽為挙措。長大自不復然。
瑯琊王は年少にして、腸肥え脳満ち、軽んじて挙措を為す。長大自ずからまたしからず。
「瑯琊王さまはお年若く、はらわたはたっぷり脳みそもはちきれそうで(物事を考える部分が無く)、軽率にもこんなことを仕出かしました。しかし、成長すればもうこういうことはございますまい」
と言うた。
とりなしたのである。
帝は、王の帯びていた刀を抜き、その刀でしばらくの間、王の髪を撫でていたが、やがて
「ふん」
と頷いて、刀を捨てた。
赦したのである。
「も、申し訳ございませぬ、兄上」
瑯琊王は跪いて泣き、斛律光は傍らにあって頷いていたのであった。
―――これが「腸肥脳満」(あるいは「脳満腸満」)という言葉の意味でございます。外見は豊満でよろしいのですが、でぶでぶで中が詰まっているので、頭が働かない、というのです。ひどい。
さて。
オンナコドモはここでおしまい。ここからは分別のあるオトナに向けてのお話。
この事件には続きがありますのじゃ。
帝はその場で弟は赦したものの、その一味を捕らえ、
於後園、帝親射之而後斬皆支解、暴之都街。
後園において帝親しくこれを射、しかる後斬りてみな支解して、これを都街に暴す。
宮廷の裏庭で(后妃たちの見ている前で)、帝は自ら捕らえた反乱軍の一味の者に矢を射かけ、ぞんぶんに射た後に、今度は刀を執って彼ら(まだ生きている者も矢で死んだ者もいたが)の手足をばらばらに切り離し、その死体を都の市街にさらしものにしたのであった。
帝の取り巻きの間には、瑯琊王にも死を賜うべき、との声が高まってまいりました。
しかし、王は母である太后のところに匿われており、太后は毒殺を恐れて王の食事はおん自ら調理なされるほどであったし、先帝の信任篤かった右衛将軍の趙元品の部下たちが王の身辺を固めていた。さらにその背後にはこれ以上皇族の間で争いを拡大すべきでないとする斛律光の圧力もあった。
帝はついに瑯琊王をこれ以上処罰しないことを母后に約束したのであった。
・・・その後半年ほどして、趙元品は予州刺使に任じられて都を離れた。
・・・さらに数月して、既に事件のことなどもう忘れたかのように、帝は母后のところに赴き、
「明日は朝早くから儼と猟に出かけてまいります」
と告げたのだった。
母后は帝の性格を疑っていたから、翌朝の出猟には、趙元品が置いて行った衛兵たちにくれぐれも王の身を護るよう言いつけ、この日は早めに眠るように命じたのである。
しかるに、この深夜、帝は女侍中・陸令萱を密使として瑯琊王を呼び出した。
王は嫌がったが、陸令萱は、
兄兄喚児、何不去。
兄兄の児を喚ぶに、何ぞ去(ゆ)かざるや。
「おにいさまが坊やをお呼びなのですよ。どうして行ってあげないのかしら?」
と凄みを利かせながら言う。
断りきれなくなった王が陸令萱についていくと、永巷坊のところで突然、
反接其手。
その手を反接さる。
後ろ手をとられた。
王が太った首を回して振り向くと、そこには口元にわずかに笑みさえ浮かべた「殺し屋」の劉桃枝の顔が見えた。
王、
乞見家家尊兄。
乞う、家家の尊兄に見(まみ)えんことを。
「お願いじゃ、うちのおにいさまに会わせてくだされ」
と叫びかけたが、
桃枝以袖塞其口、反袍蒙頭、負出至大明宮、鼻血満面、立殺之。
桃枝、袖を以てその口を塞ぎ、袍を反して頭を蒙して、負いて出でて大明宮に至るに、鼻血満面にしてたちどころにこれを殺す。
桃枝は袖で王の口を塞ぎ、上着をひっくり返してその頭をくるんで、「ぐい」と背中に背負いあげ、大明宮の傍らまで来たときには、王は鼻血で顔中血だらけであったが、そこでたちまちのうちに(首を締め上げて)殺した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ということである。以上、「北斉書」巻十二「瑯琊王儼伝」より。小説みたい、ですが、一応いわゆる「正史」の記述ですよ、これは。
さてさて、脳満腸肥のわたしながら冒頭の読書人階級の男女に反論させていただけますならば、
清の満族詞人・納蘭性徳の「念奴嬌・宿漢几村」(「漢几村に宿る」のうたー――「かわいい奴隷女が好きさ」の節で歌え)に曰く、
便是脳満腸肥、尚難消受此荒烟落照。
すなわちこの脳満腸肥も、なお消受しがたし、この荒烟と落照を。
おれのようなノーマンチョーヒのやつだとて、何とも感じないというわけにゃあいかないさ、この荒れた村のもやの中の落陽には。
と。
ノーマンチョーヒでも感受性はあるのだ。覚えておくといい。
ちなみに、斛律光や劉桃枝やこの時代のことは、→こちらも参照ください。亡びゆく國のことはおもしろいなあ。身につまされて・・・。