このようになるのだ。
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わざおきびとの祝漢貞という者は晩唐の名君・宣宗皇帝(在位847〜860)に滑稽を以て仕え、たいへん寵愛をこうむったひとであった。・・・のだが―――。
上行幸、召漢貞前、抵掌笑談。
上行幸するに、漢貞を前に召して掌を抵(う)ち笑談す。
あるとき、皇帝が宮城から外出なされた際、無聊をお慰めになるため漢貞を御前にお召しになって歓談され、てのひらを叩き、大笑いして楽しく話されたのであった。
ところが、歓談の間に、漢貞が
言及外間事。
言いて外間の事に及ぶ。
「近ごろ世間では・・・」と宮廷の外のことに言及しようとした。
果たして漢貞がどのような話に言い及ぼうとしたのか、は史書の伝えるところではない。なぜなら、漢貞が具体的な話をするよりも前に、それまで大笑いしておられた皇帝が、
正色曰、我養汝輩供戯楽耳。敢干預朝政耶。
色を正して曰く、「我の汝輩を養うは戯楽に供せんとせんのみ。あえて朝政に干預せんとするか」と。
突然顔つきを変えて、
「わしがおまえのような輩を養っているのは、単に戯れの楽しみのために働かせようというだけなのじゃ。おまえごときが天下の政治に関与するようなことを言おうというのか!」
と激怒したからだ。
おそれおののいて御前を退出した漢貞であったが、以降、一度も皇帝のもとに伺候することかなわず、やがて漢貞のまだ若い息子が窃盗事件にかかわったとして取り調べ中に殴り殺されることがあり、
而徙漢貞于辺。
而して漢貞を辺に徙(うつ)せり。
さらに漢貞も連座して遠く辺境に流されてしまった。
その後、都で彼の消息を聞くことは無かった。
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宋・王讜「唐語林」巻二より。王讜(おうとう)は長安のひと、「五十家小説」(正史以外の五十の記録)をもとに、唐の史上の人物のエピソードを集めて本書を撰した。
このお話は、いわゆる外柔内剛型の賢君であった宣宗の「いいエピソード」の一つとして伝わるものなのである。が、こちら(しもじもの仕えている方)から見れば、いずれおれらもこのようにされる、のだなあ、とキモに命じておかねばならない先例である、といえましょう。
哀哉。明日も会社行くよ(涙)。午後からだけど。