いい天気でした。いよいよ春ですね。花見する気にはなれないけれど。誰かに言われて自粛しているのではない。わしも含めて、(東国の)日本人は今、言葉にできぬコワいものに震えていてコワいのです。人の霊か地の精かは知らぬが、なおこの春の風の中に数え切れぬ不安定なもの、がさまよっているのを感じて、それへの畏れで静かにしているだけなのだ。かえりみれば、昭和天皇の大喪の時も別に誰かに言われて自粛していたのではなかった。あのときも鎮められぬ八百万の何かがさまよっていることをみんな言葉にせずに感じていたのだった。・・・と言ってみたりして。
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昨日、釣巨鰲客と名乗った張祐のお話をしましたが、すぐに友(※)より連絡あり。次の@Aの二人(いずれも唐のひと)のことも語っておかねば不公平のそしりを免れることはできぬであろう、との叱正である。
そこで付け加えておきます。
※念のため言うておきますが、もちろんこの「友」はこの世に今生きてある友ではない。「見ぬ世の友」である。わたしにはこの世の友だちはいませんからね。
@ 王厳光のこと
王厳光はその才に比して用いられず。つねに不平を抱いて「釣鰲客」と号し、長安都下の貴顕の邸を訪ねては鉄類を乞うて歩いた。
以造釣具。
以て釣具を造るなり。
それで巨大な釣り道具(ハリ)を造るのです。
というのである。
もし応じない者があると、
輙録姓名置篋中。
すなわち姓名を録して篋中に置く。
そのひとの姓名を書きつけた紙切れを箱の中にしまいこんだ。
そして
下鈎時取此等蒙漢為餌。
鈎を下すの時、此らの蒙漢を取りて餌と為すなり。
「釣りバリをおろすときには、ここに名前を書きつけたバカモノどもを捕まえてきて、エサにしてやるばい」
と豪語哄笑したという。宋・孔平仲「談苑」巻四より。
A 李白のこと。
李白がある大臣に面会を求めて、
海上釣鰲客 李白
と書いた名刺(当時は板に書いた)を差し出した。
大臣問うて曰く、
先生臨海釣巨鰲、以何物為鈎綫。
先生海に臨んで巨鰲を釣る、何物を以て鈎・綫と為すや。
「先生が大海に臨んで巨大なウミガメを釣るというそのとき、ツリバリと糸は何を使うおつもりかな」
李白答えて曰く
以風浪逸其情、乾坤縦其志、以虹霓為糸、以明月為鈎。
以て風浪をしてその情を逸せしめ、乾坤をしてその志を縦ままにせしめ、虹霓を以て糸と為し、明月を以て鈎と為さん。
風と波には思いを遂げさせてやろうと思う。
天と地にはやりたいようにさせてやろうと思う。
つがいの虹を釣り糸に、輝く月を釣り針に、しようと思う。
・・・春先ですなあ。
「では、何を以て餌としますかな」
以天下無義気丈夫為餌。
天下の義気無きの丈夫を以て餌と為さん。
「天が下の、おとこ気の無いおとこを捕まえて、エサにしたいと思うのだ」
そう言うてぎろぎろと、半ば狂ったひとの目で大臣を見つめたから、大臣は総身に鳥肌が立った、ということだ。宋・趙令畤「侯鯖録」巻六より。
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オオガメを釣るのは世を経、民を済(すく)うのひと、エサとされるのは侠気無きやつ(お○なの腐ったようなやつ?)、ということなれば、昨日、李紳さんが「エサにする」と言われて怒ったキモチもわかりましょう。
後世の詩人、また歌うた。
将屠龍剣、釣鰲鈎、遇知音都去做酒。
屠龍の剣、釣鰲の鈎を将いて、知音に遇わばすべて酒と去り做(な)さん。
さあ、呑もうではないか。すべてを忘れて。
おれたちは二人、それぞれ龍をほふることのできる剣と、オオガメを釣り上げるためのツリバリを手にして、
互いに理解しあえる友と今ここに出会うたのだから。
元・貫雲石「紅綉鞋」。