寒いのです。あんまり寒いので後頭部がクラクラし、ふ、―――と気を失って、幻覚を見た。
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あるひとが、一本の材木を贈ってくれた。
「さて、これを何に使おうか」
と悩んでいると、童子が曰く、
「これは梁(はり。横にわたす大材)に使えそうではありませんでちょうか」
「待て待て」
わしは言うた、
木小、不堪也。
木小にして堪えざるなり。
「梁に使うには短すぎるように思うぞ」
童子曰く、
「それでは棟(むなぎ。縦に立てる柱)に使いまちょうか」
わしは言うた。
木大、不宜也。
木大にしてよろしかざるなり。
「棟木に使うには長すぎて不適当ではないかな」
ぶ。
ぶははー。
童子は笑うた。
「先生、
木一也、忽病其大、又病其小。
木一なり、たちまちその大に病(なや)み、またその小に病む。
同じ木材なのに、長すぎると悩んだり、短すぎると悩んだり、たいへんでちゅねえ」
おお!
わしは感動しました。
「発見じゃ! 真理を発見したぞ!
小子聴之。
小子、これを聴け。
おまえ、わしの話しをようく聴くのだぞ」
わしは呆気にとられている童子に向かって言うたのじゃ。
物各有宜用也。言各有攸当也。豈惟木哉。
物にはおのおの用いるべきあり。言にはおのおの当たる攸(ところ)あり。あにただに木のみならんや。
「「モノ」には、それぞれに用いられるべき場合があるのだ。「ことば」にもそれぞれに当てはまる場合があるのだ。(用いられるべき場合・当てはまる場合を探さねばならないのは、)木材だけのことではないのだということじゃ」
童子は「はあ・・・、ちょれは、ちょれはねえ」と言うた。
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別の日、朝からやたら寒い日であった。朝起きてみると、童子が、
為余生炭満炉烘人。
余のために生炭炉に満ち、人を烘(あぶ)る。
寒がりのわしのために木炭をいろり一杯に入れて、人を焦がすぐらいに燃やしていた。
わしは言うた、
太多矣。
太(はなは)だ多きかな。
「これは多すぎるぞ」
「あいあい、そうでちゅかそうでちゅか」
童子は取り去って水をかけて消してしまい、
留星星三二点、欲明欲滅。
留むるもの星星三二点、明らかならんとし、滅せんとす。
わずかに二つ三つの炭に火が残って、それも燃えるかと思えば消えてしまいそうである。
わしは言うた。
太少矣。
太(はなは)だ少なきかな。
「これは少なすぎるぞ」
ぶ。
ぶぶぶー。
童子はむすーとして曰く、
火一也。既嫌其多、又嫌其少。
火一なり。既にその多きを嫌い、またその少なきを嫌う。
「同じ炭火なのに、多すぎると文句を言ったり、少ないと文句を言ったり、なんでちゅか、あんたは」
おお!
わしは感動しました。
「発見じゃ! 真理を発見したぞ!
小子聴之。
小子、これを聴け。
おまえ、わしの話しをようく聴くのだぞ」
わしは呆気にとられている童子に向かって言うたのじゃ。
情各有所適也。事各有所量也。豈惟火哉。
情にはおのおの適するところあり。事にはおのおの量(はか)るところあり。あにただに火のみならんや。
「「キモチ」には、それぞれに適切な場合があるのだ。「できごと」にもそれぞれに適当な回答があるのだ。(適切な場合・適当な場合を探さねばならないのは、)炭火だけのことではないのだということじゃ」
童子は「あいあい、そうでちゅ、そうでちゅねえ」と言うた。
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明の新吾(心吾、とも)先生・呂坤の名高い著作である「呻吟語」巻六より。6年ぶりぐらいですね。
「気の利いた本を引いてきたな」
とお偉方はお喜びかもね。お偉方は陽明学とかスキだからね。でもお偉方は読まんけどね、こんなHP。「呻吟語」は二十数年前に苦しんで読んだ。当時は「もっと年を重ねてまた読まねば・・・」と思ったものだが、今読んでみると当時以上にオモシロくないし、どうも「そうではないと思うぞ」と言いたくなってくるところも多いように思われます。やはり萬暦の書(萬暦二十一年(1593)ごろという)なので、盛世の驕りのようなモノも感じてしまいますね。ゲンダイにおいて「バブル期」の本を読んでいるような感じ。
なお、この「童子」は実際は「家僮」と書いてあるので、使用人である。「小子」と呼びかけられているのは「弟子たち」でこちらは読書人たちだから、別のモノなのであり、その間には厳格な身分差がある。しかしどうせ幻覚だから、どうでもいいや、ということで、「弟子たる童子」と解してみた。メルヘンチック。あるいはナイーヴな東洋幻想。だなあ。
・・・・という幻覚を見ている間に、現実のわたしは、山梨県立博物館、八田家書院、経塚古墳を見てきたようである。パンフとかスケッチがポケットに入っていた。どうせなら平日ジゴクの明日からこそ、幻覚のうちに過ぎてしまえばよかったのに。