すごいショック。ほぼ完成した更新文がPCさまの突如の電源落ちとともに白紙に戻った。しかし、すさまじい精神力と週末のよろこびとで再挑戦じゃ。
ところでみなさん、次のようなひとをどう思われますか。
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解元亀は五代・後唐の明宗(在位926〜933)のとき、道士姿でふらりと都・開封に現れ、自ら「西より来たれり」と称して帝に面会を求めた。
明宗は帝位を簒した直後で、民心の掌握に努めていたときであったから、この背丈だけひょろりと高い貧相な老人に謁見を賜ったのだった。
解元亀は「太白山・正一道士」と称し(もしその称号のとおりであれば、極めて高位の道士である)、帝と群臣の前で、帝の聖徳をほめたたえる歌を大声で歌いあげた。
帝の側近の中にさきごろ滅びた蜀の王氏政権(歴史上、「五代の前蜀」と呼ばれる)に仕えていた者があり、
「あの男、どうもどこかで見たことがあると思いましたが、
本西蜀節将下軍校。
もと西蜀の節将が下の軍校なり。
もともと西方の蜀の部将に仕えていた軍人ですぞ」
とその正体を暴露したのであるが、謁見後しばらくして、解元亀は帝に上表文を奉ってきた。
この上表文を開き見るに、帝は
「うひゃあ、なんじゃ、これは」
と驚きの声をあげた。
乞西都留守、兼三川制置使、要修西京宮闕。
西都留守、兼ねて三川制置使を乞い、西京の宮闕を修めんことを要(もと)む。
わたくしを(陛下のいますこの開封に対し)西方の都(成都)の代理皇帝・兼蜀地の軍事・行政総督に任命いただきたい。合わせて、自らが住むことになる西方の都の宮殿を修築願いたい。
というのである。
斯乃狂妄人也。
これすなわち狂妄のひとなり。
すなわち、狂気にとりつかれたおかしなひとだったのだ。
帝は再び解元亀を呼び出すと、群臣の前で、
此老耄自遠来朝、所期別有異見。乃為身名甚切、堪笑也。
この老耄(ろうもう)遠きより来朝し、期するところ、別に異見あらんと。すなわち身名の為にすること甚だ切、笑うに堪えたり。
「この老いぼれは、遠いところから都にやってきたので、もしかしたら普通でない世界観や献策を持っているのかと思った。ところが、自分の地位と名声のことばかりをたいへん切実に願っていたのじゃ。本当に笑うべきことではないか。」
と指差し、そして大笑いした。
群臣もともに大笑いした。
解元亀もともに大笑いした、ということである。
しかして帝は解元亀に
知白先生
の号を賜った。要するに「何も知らない先生」の意である。
合わせて、高位の道士に贈られる紫の衣を与え、都内に住まわせて、しばらくは季節ごとの宴席などに呼び出しからかって戯れていたが、―――やがて、忘れた。
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五代・孫光憲「北夢瑣言」巻十九より。
いかが思われましたか。
え? なんとも思わない? 解元亀の姿と、御自身のお姿とはそっくりだ、とまだおわかりにならないんですか?
・・・・と。さすがに言い過ぎかな。