平成22年12月15日(水) 目次へ 前回に戻る
昨日、清の時代にお芝居の敵役のことを「参軍」と言った、ということを紹介しました。何故そういうのかについて、もう少し勉強してみます。
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すでに宋代の雑劇では、悪役が役人の格好をして登場することが多く、これを
号為参軍色。
号して参軍色と為す。
「参軍役」と呼び習わしていた。
のだそうである。
その理由は、
@漢の劉歆の「西京雑記」を按ずるに、長安に古生(古なにがし)という者がおったという。
この古生という男は、たま弾きや矢投げ、あるいはサイコロ博打などの遊戯に詳しく、これを以て京兆府(首都)のおエラ方に取り入り、都椽史という官職について四十余年も勤め、おエラ方の心をたぶらかして実権を握り私腹を肥やすのことがあったといい、趙広漢という京兆(都知事)が就任したとき、はじめて彼を退けた。
至今排戯皆称古椽曹。
今に至るまで排戯にはみな古椽曹と称す。
以来、ゲンダイに至るまで、俳優の劇では(悪役を)「古椽曹」と呼ぶようになったのである。
そうで、「椽曹(史)」は後世の「参軍」に当たるのである。
・・・というひともいますが、
A唐・段安節の「楽府雑録」という書物によれば、後漢の時代に石眈という役人がいたが、このひとが官物の横領の罪で流罪に処せられることとなった。しかし、当時の和帝(在位・88〜105)は眈の諧謔の才能を惜しみ、流罪を許す代わりに
毎宴令衣白衫、命優伶戯弄辱之。
宴ごとに白衫を衣(き)さしめ、優伶に命じてこれを戯弄して辱めしむ。
宮中で宴会があるごとに、(道化役の)白い上っ張りを着させて、わざおぎたちに彼をからかわせ、ぎゃふんと言わせて楽しんだ。
のであった。眈は数年後に解放されて、
後為参軍。
後に参軍となる。
後に参軍となった。
ので、「やられ役」を「参軍」と呼ぶようになったのである。
・・・というひともいますが、
B我が宋の景徳年間(1004〜1007)に張景というひとが排斥されて房州参軍(宋の「参軍」は「郡の政に参画する官職」である)に左遷されたとき、自ら「屋壁記」という文章を書いているが、その中で、
近到州、知参軍無員数、無職守、悉以曠官敗事違戻改教者為之。
近ごろ州に到りて、参軍に員数無く、職守無く、ことごとく曠官・敗事・違戻・改教せる者を以てこれを為すを知れり。
最近、この地方に飛ばされてきて、はじめて(自分が新たに就いた)参軍という職は、定員も無ければはっきりした職掌も無く、これに任ぜられているのは、みんな、曠官(しごとをしない)、敗事(何らかの失敗をした)、違戻(命令違反を犯した)、改教(上司の方針を変えてしまった)といった汚点のあった者ばかりであることを知った。
ワイルド7みたいな集団であったのだ。
それでも、そのわしらは
凡朔望饗宴使預焉、人一見必指曰、参軍也。
およそ朔・望の饗宴には預からしめらるに、人、一見して必ず指さして曰く、「参軍なり」と。
毎月一日と十五日の役所の宴会には参加させてもらうことになるのである。その時、(まともな)ひとたちは、わしらの(やさぐれた)姿を一見して、後ろ指さして「見ろよ、参軍さんたちだぜ」と言うのである。
云々。
・・・これを見ますと、俳優たちが彼ら「参軍」をまねて悪役の役作りをした、ということであったのだな、ということが理解できる。
ということで、第B説が正しいであろう。
最近の悪役俳優たちが、
多装状元進士、失之遠矣。
多く状元・進士を装うは、これを失うこと遠いかな。
たいてい科挙試験の首席や高位合格者の扮装をしているのは、ずいぶん違ってしまったものである。(もともとはドロップアウトした役人を真似たのであったのだ)。
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と、南宋の趙彦衛の考証メモ集である「雲麓漫鈔」巻五に書いてありました。勉強になった。でも、ほんとっぽいけど、ほんとかな?