平成22年11月23日(火) 目次へ 前回に戻る
心がどす黒くなってきた。
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盧山の道士・劉某というひと、楚の地方に行く用があって旅立ち、宜春まで来て、一軒の貧しそうな百姓家に宿を頼んだ。
その家には老人夫婦が住むだけであった。
老人は劉が扉を叩くとはじめたいへん恐れていたが、劉が廬山の道士であると名乗るとほっとしたように迎え入れてくれた。
「ただ・・・」と老人が言うには、
復喪一子、未有以殮。
また一子を喪い、いまだ以て殮(れん)するあらず。
「つい先だって一人息子を亡くしまして、まだその子の棺が家の中にあり、葬儀を終えておりませぬ。
それでよろしければお泊めしましょう」
とのことである。
付近に家のかげもなく、この家に泊まれねば野宿するはめになってしまう。
「ぜひお願い申す」
劉は深々と頭を下げて宿泊させてもらうことにした。
・・・深夜。
扉をとうとうと叩く音がした。
劉がその音に目を覚ましたときには、老人と老婆はもう起き出しており、
「ああ、ああ」
と嘆きながら扉を開けたようである。
しばらく耳を澄ませていると、何者かが家の奥の間の、老人夫婦の一人息子の死体が安置されていると聞いた部屋に入っていくようだ。
―――このような夜中に何者であろうか。
と、劉はそうっと部屋の戸の隙間から室外を伺った。
有一男子行哭而来、但撫膺而号、曰、可惜、可惜。
一男子の行哭して来たり、ただ膺(むね)を撫して号(さけ)び、「惜しむべし、惜しむべし」と曰うあり。
一人の男である。声を上げて泣きながら、胸を叩いて叫び、棺の中に寝かされた死体の前に座って、「モッタイナイノウ、モッタイナイノウ」と嘆いている。
普通の弔問客のようであるが、なぜこんな深夜に来ているのかが解せぬ。
劉はさらに隙間に目を近づけようとして、ふと前のめりになり、体を支えようと戸に手を触れた。
かたり・・・。
と戸が音を立てた。
弔問の男は、その音に振り向いたので、男の顔が見えた。
―――あ。
劉は思わず息を飲んだ。
見面白如雪、梳両髽結者。
面ての白きこと雪の如く、両髽(サ)を梳りて結ぶ者なり。
その顔は真っ白なのである。あまりにも白くて雪のようなのである。そして、髪を結んで両方に垂らしていた。
髪を結んで両方に垂らすのは、一般には女性の喪中の習俗であるが、それより・・・。
この男の顔には、目と鼻が無く、口とおぼしき場所に真っ黒な穴が開いているだけなのだ!
そいつは、劉の部屋の方にしばらく顔を向けていたが、やがてやにわに
どん。
と音をさせて立ち上がると、棺の中に手を突っ込んで、死体を、まるで紙切れかなにかのように軽々と持ち上げると、
負尸而去。
尸を負いて去る。
死体を背中に負い、ものすごい速度で家から出て行ってしまった。
その間、老人と老婆は座ったまま嘆いているばかりである。
―――――さすがに劉はそのまま朝まで一睡もできなかった。
朝になると、老人と老婆は何事も無かったかのように朝食の準備をしていた。奥の間の棺には蓋がされ、その中には死体が眠っているかのようにお供え物が用意されていた。
劉はそれ以上知ってはいけないことなのだろう、と察し、夫婦に厚く礼をして、何も問わずに旅立ったのだった。
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ということである。五代〜宋・徐鉉「稽神録」巻三より。