平成22年10月19日(火)  目次へ  前回に戻る

こういう鳥↓もあるということです。海上保安庁がんばれ。

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時に大暦五年(770)。春三月の半ば(旧暦)のころである。

既に老齢に達した痩せぎすの詩人が、自分の棲家でもある舟の上で、雪解けの水で増水した川(「湘江」という川である)の水面を見ながら、詩を作っておりました。

佳辰強飲食猶寒。  佳辰に強飲すれど食はなお寒なり。

隠几蕭條戴鶡冠。  几(き)に隠(よ)り蕭條として鶡冠(かつかん)を戴く。

春水船如天上坐、  春水に船は天上に坐するが如く、

老年花似霧中看。  老年に花は霧中に看るに似たり。

娟娟戯蝶過陋、  娟娟(けんけん)たる戯蝶は陋を過ぎ、

片片軽鴎下急湍。  片片たる軽鴎は急湍(きゅうたん)を下る。

雲白山青万余里、  雲白く山青きこと万余の里、

愁看直北是長安。  愁いて看る直北はこれ長安なり。

 このよき日に無理矢理に酒を飲んでみた。食い物はまだ冷たいものばかりである。

 脇息にもたれて何もすることがない。やまどりの羽を挿した冠をかぶっているからね。

 春の水は嵩を増し、船はまるで天上に座っているかのように押し上げられ、

 わしは年老いて目がかすみ、花も霧の中で見ているようじゃなあ。

 色華やかなちょうちょうは、戯れながら船内に引き回したカーテンの間を通り過ぎて行く。

 ぽこぽこと浮んだかもめたちは軽やかに急な流れに流されて下っていく。

 雲は白く、山は青く、一万余里のかなたまで晴れ渡り

 わしは物思いながら北の方をみはるかす。かなたには長安の都があるのだが―――。

これは、杜甫「小寒食舟中作」(小寒食、舟中の作)という七律である。

冬至から数えて105日目(現在の日本国の暦では四月の五日前後になるのかな)を「寒食節」と称し、その前日(104日目)とその翌日(106日目)とあわせて三日間(この三日間を合わせて「寒食節」ということもある)は、火を使って煮炊きしたものは食わぬ(すなわち火をつかわぬ冷たい物だけ食う=寒食)、という風習があった。その来歴については春秋の晋の文公がどうたらこうたらとか伝説は多々ありますが、おそらく遠い古代の「火鑚りの祭り」(古い火を捨て、新しい年に使う新しい火を鑚り出す行事。我が国の現代神道では歳旦に行っていますね)に起源があろうと思われる古い古い習俗である。

その「寒食節」の最終日(すなわち冬至後の106日目)を「小寒食」ともいう。二日間冷たい物を食ってきて、今日一日だけの辛抱だ、という日なので、杜甫の詩では「食はなお寒なり」(・・・食い物はまだ冷たいものばかり)と言っているのである。

「隠」はここでは「寄る、もたれる」の意。

さて、「鶡冠」というのはどういう冠でしょうか。

古代の特産物地図の解説書であったと思われる「山海経」によれば

W諸之山、其鳥多鶡。

W諸(きしょ)の山、その鳥は多く「鶡」なり。

(そこには)W諸の山というのがある。その山にいる鳥は「鶡」が多い。

というので、山中に棲む「やまどり」であることは間違いないのですが、その「古注」にいうに、

鶡似雉而大、青色有毛。勇健闘死乃止。

鶡(かつ)は雉に似て大、青色にして毛あり。勇健にして闘えば死してすなわち止む。

「かつ」の鳥はキジに似ているがやや大きい。色は青黒く、毛が生えている。勇猛で健やかな性質であり、(縄張りを侵す他者があれば)闘って死ぬまで止めない。

とある。侵入者と戦う鳥らしい。

さらに「晋書」をひもとくと、

鶡鳥・・・性果勇、上党貢之趙武霊王、以表顕壮士。至秦漢猶施之武人。

鶡鳥は・・・性、果勇なり、上党これを趙の武霊王に貢ぎ、以て壮士を表顕す。秦漢に至るもなおこれを武人に施せり。

「かつ」鳥は・・・その性格、果断で勇気がある。戦国の時代、上党が特産地であったので、その地のひとびとがこれを趙の武霊王に献上した。王は、この鳥の羽毛をもののふたちのシンボルとして、手柄があった者に賜った。そこで、秦や漢の時代になってもなお、武士たちへの下賜品として使われたのである。

と書いてあった。

「上党」はもと戦国の韓の国の一地方(今の山西省内)で、「上」すなわち「天」と「党」すなわち「等しい」ほど高い山岳地であるという意味だという。韓が秦に攻略されると、秦に附することを嫌がって、当時強国であった趙の領地となった。「趙の武霊王」は戦国の軍事的天才の一人で、北方の騎馬民族との戦いから学んだ騎兵戦法を中原の国々としては初めて取り入れて斉や秦の強国と対抗したひとである(在位前325〜前299)。

ということで、「鶡」は武人への賜り物にされたようなのだが、この記述だけでは「冠」とされたかどうかがわかりません。そこで今度は「本草綱目」を開いてみますと、明の李時珍によれば、この鳥の首には毛が盛り上がって角のようになった「とさか」があり、この鳥が侵略者を見かけると一目散に飛び掛り、

雖死猶不置。

死するといえどもなお置かず。

死んでも見逃そうとはしない。

という性質を持つことから、いにしえより武士はその「とさか」を模した「鶡冠」をかぶるのである、と書いてありました。

納得した―――

と思ったのですが、しかしながら、杜甫というひとはその官僚人生で一度も「武官」になったことがない。なのにその杜甫がなぜ「鶡冠」をかぶるのか。

これにはさらにめんどくさい典故があります。

漢のころに書かれたとされる「鶡冠子」(かつかんし)という書があって、その内容は老子の教えをもととして法家の議論を交えるものだという(←読んだことないので伝聞形)ことで、漢の劉向や唐の韓愈らが高く評価している著作ですが、彼らの伝える説によれば、この書を著したのは楚のひとで、山中に隠れ、「鶡」を以て冠としていた隠者であり、それで尊称して「鶡冠子」(鶡の冠の先生)というのである、と。そして、なぜ「鶡」の冠をかぶっているかというと、「勇を以て退く」すなわち果断に隠退する決断をした、それが「鶡」の勇気と重なるからである・・・とされたのでありました。

ゆえに、杜甫がかぶっていた「鶡冠」は、武人が勇気の象徴としてかぶっていたモノではなくて、勇退した隠者がかぶっていたモノである、と想像されます。

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ああ。

下らんことを考証しているうちにまた長くなってしまい、まだ週のはじめだというのにこんな時間に・・・(涙)。

詩を「鑑賞」する時間は無さそうですが、「雲白く山青く、万余里」という句はさわやかな中に透明な哀しみを含んでいて、佳い句だと思いませんか。

直北に長安がある(はず)と言っています。この詩は杜甫が湖南の潭州(今の長沙の地である)にあって船上生活者になっていたときに作ったものなので、長沙(東経113°)からみると長安(東経109°)は北北西にあたるのですが、まあ詩的表現としてこれでよろしいのでしょう。

それにしても杜甫もさすがにだいぶん弱ってきているようです。もう数えで59ですからね。

杜甫はこのころ、かつて玄宗皇帝の宮廷で名手と聞こえた歌手の李亀年に会い、それから船上生活をしたまま北へ向かおうとしたが果たさず夏にはまた長沙に舞い戻ってきたらしい。秋にはまた北に向かおうとして、長江に出ようという洞庭湖のあたりで永遠にあっちへ・・・・・。

 

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