本当かどうか知りませんが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
漢の時代、汝南の戴紹、字・幼起というひと、父の喪に服して三年の喪が明けると、
譲財与兄、将妻子出客舎中住、官池田以耕種。
財を譲りて兄に与え、妻子を将いて出でて客舎中に住み、官池の田以て耕種す。
財産中の自分の取り分を兄に譲り、自分は妻子を連れて出て、域外からの移住者を住まわせる仮設住宅に住み、官池(湿地を政府が整備したものであろう)の近くの公有田を借りて耕作して暮らした。
財産を省みなかった、ということであるらしい。
後、税収・出納を掌る(見入りのよい)地方官である上計史に任命された時、
独車載衣資、表汝南太守上計史戴紹車。
独車に衣資を載せ、「汝南太守上計史・戴紹の車」と表す。
手押しの一輪車に着る物と全財産を載せ、「汝南太守の部下である上計史・戴紹の車」というのぼりを立てて、それを自分で推しながら赴任した。
ということである。
後、挙げられて陝州の太守となった。
―――ちょっと変わったひとのようですが、このひとのことについて、後漢の応劭が「謹んで按じるに・・・」と意見を述べているので聞いてみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どこか納得がいかないのである。すると、ひとはどこが納得がいかないのか言え、と言う。
そこで言わねばならないと考えたのである。
「礼」の規定(「儀礼」)に
―――東と西に別れ住み、それぞれの生活をするけれど、
不足則資、有余帰之于宗也。
足らざれば資(たす)け、余り有ればこれを宗に帰す。
不足があるときは助け合い、余りが出たときには本家に納入する。
のがそれぞれの家を成した兄弟の有り方だ、と書いてあるのである。
それなのに、戴紹は一族の住む地から離れ、自ら耕作して粥を食う生活をしたということである。
一輪車を押すのはおかしくはないのである。しかし、
復表其上、其為飾偽。
またその上に表し、それ飾偽を為すなり。
その上にのぼりを立てているのである。これは、飾って偽善を為しているのである。
そうでないというひともいるだろう。わたしはそうだと思うのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうですか。応劭「風俗通義」(あるいは「風俗通」)巻四より。
意見の部分は尊敬する山本夏彦大先生ふうの文遣いで訳してみた。見つかったら怒られるかも知れません。が、心配はしないのである。弱小すぎて目にも止まらないのだからである。死んでおられるし。