平成22年8月30日(月) 目次へ 前回に戻る
来今往古、逝者如斯。貴賎賢愚、誰能免此。
来今往古、逝く者はかくの如し。貴賎賢愚、誰かよく此れを免れん。
眼前にあるのは現在、行ってしまったのは既に過去。去り行くものは止まることがない。
貴きひとも賎しきひとも、賢きひとも愚かなひとも、誰もかれもこのことから自由にはなれないのだ。
みんな死んでしまうのですなあ。
なお、「逝く者はかくのごとし」とは「論語・子罕篇」の名高い「川上の嘆」であり、古来、大きく分けて
@ 川の流れのように過ぎ去っていくものは止まることがない(から、われわれは流れて行く時間をムダにせず努力せねばならんぞよ。)
A 川の流れに現われている大いなる力は止まることがない。(われわれもその大いなる力の一つの現われなのであるから、止まることなく自己を発現していかねばならんのう。)
という二通りの解釈があるとされるところです・・・が、ここでは@だろうかAだろうかということに捉われず、ただ文字通りに解しておけばいいと思うのです。
三尺紅羅、過客而弔過客。一堆黄土、死人而哭死人。
三尺の紅羅、過客にして過客を弔う。一堆の黄土、死人にして死人を哭す。
三尺の赤いうすぎぬを葬送の標しにして、旅人となるべきひとがすでに旅だった人を弔うている。
一かたまりの土まんじゅうの前で、死すべきひとがすでに死んだひとのために声を挙げて泣いている。
今生きているひとももうすぐ死ぬのですなあ。
興言及此哀哉。当下修行晩矣。
興言、ここに及べば哀れなるかな。当下に行を修むも晩(おそ)きかな。
ああ、こうなるのだと思えばかなしいことだ。今さら仏道に目覚めて修行してももう晩いのだろうなあ。
「興言」は「言を興す」と解してもわからないことはないですが、語助詞(間投詞)として用いられることがあるというので、それに従いました。
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「続娑羅館清言」より(第32則)。
戸籍上120歳以上生きてきたお年寄りもどんどん亡くなっていく世の中です。わしももう粘りすぎかなあ、という気がしてきた。