平成22年4月4日(日)  目次へ  前回に戻る

乾元二年(759)三月、安禄山の反乱軍を追った郭子儀らは、賊軍の主力・安慶緒を相州に囲んだが勝たず、さらに史思明らの攻勢を受けて潰乱状態に陥りながら後退し、ようやく洛陽城を保つばかりで、防衛線を再編せざるを得ない状況となった。

この時期、杜甫は洛陽から華州へ旅して、荒廃した農村とそれでも止まぬ封建収奪に憤って「社会詩」として名高い6篇の古詩「三吏・三別の詩」を作った・・・ということになっているのですが―――。杜甫は本当に社会的な憤りを持っていたのだろうか。以下にその詩を読んでみましょう。まずは「三吏」といわれる「新安の吏」、「潼関の吏」、「石濠の吏」を読みます。(「唐宋詩醇」より)

1.              新安吏(新安の吏)

わしが新安の町まで来ましたら、役人が新たに徴発した兵士の点呼をとっておる。

「おいおいこれはどうしたことだ?」と新安の町の役人に問いかければ、「我が県は小さいのでもう成人の丁男がおりません。

昨夜府庁からさらに徴発せよとの命令書が来ましたので、少年男子の中男を徴発したところでございます」と答えた。

少年たちはまだまだ背丈も足らず小さいのう。どうやって洛陽城を守備できるのだろうか。

肥った少年は母が見送りに来ているが、痩せた少年はただ一人立っている。

白水暮東流、  白水は暮れに東流し、

青山猶哭声。  青山はなお哭する声あるがごとし。

莫自使眼枯、  自ら眼をして枯れしむること莫れ、

収汝涙縦横。  汝の涙の縦横たるを収めよ。

眼枯即見骨、  眼枯れて即ち骨を見(あら)わすも、

天地終無情。  天地ついに情無からん。

 白い水の流れは東に向かい、

 青い山々はまるで嘆き悲しむ声を上げているかのようだ。

 目の玉が枯れ尽きてしまうほど泣いてはならんぞ、

 縦に流れ横に流れるおまえの涙を振り払え。

 目の玉が枯れ尽きて骨が出てきても、

 天も地も同情してくれるわけではないのだから。

我が皇帝の軍は相州を攻略しようとし、昼も夜も人民はそれが早く成功することを望んでいた。

ところがどういうことなのか、賊軍の出方は予想しがたく、(敗れて)後退した我が軍はそれぞれに軍営に散らばって行った。

軍営でたらふく補給品を得、部隊の訓練をしながら洛陽を根拠にしているのだ。

濠を掘らされるかも知れぬが地下水脈に至るほど深いものではないし、馬の世話をさせられるかも知れぬが大した労働ではない。

皇帝の軍は思いやり深く、上司の命令によく服している。

徴発された者を血の涙を出してまで送る必要はないのだ、洛陽の大将軍(郭子儀)どのは親父のように面倒見のいいおとこ。

・・・・・・・原文を示した部分が「反戦歌」のように見えて名高いのですが、よく読むと「そうではないんだよ」というための前ぶりですね。

2.              潼関吏(潼関の吏)

士卒何草草、  士卒なんぞ草草たる、

築城潼関道。  城を築く潼関の道。

大城鉄不如、  大城は鉄も如かず、

小城万丈余。  小城も万丈の余なり。

 兵卒どもはどうして忙しそうにしているのか。

 潼関回廊の一帯に城砦を築いているからだ。

 大きな城砦は鉄よりも堅く、

 小さい城砦も一万丈以上の城壁を持つ。

潼関の役人を見つけたので、「おいおい、これはどうしたことだ?」と問いかけると、「関の防禦を固くして異民族どもに備えるのです」と答える。

役人はわしを案内して馬から下りて歩かせる。そして山の一隅を指差して言う、

「雲に連なるまで砦を設けておりまする。飛ぶ鳥さえ自由に越させることはありませぬ。

異民族が来たらここで我が部隊だけで守るのです。長安が被害を受ける心配はございません。

だんな、要害の場所をご覧なさりませ。道が狭いので戦車も一台づつしか通れません。

難所で長い薙刀を操れば、一人で大軍を防禦できる、と古えより言われているところでございます」

ああ。役人はそういうが、先年、このあたりの桃林の戦いでは、百万の唐軍が河に追い込まれて溺死したのだ。

関所を守る部将に申しておくぞ、どうか慎重にやって、前回のような失敗をするでないぞ、と。

・・・・・・・原文を示した部分が軍に徴発された重労働の苦しみを歌っている、ように見えて名高いのですが、よく読むと「がんばれよ」という歌でした。

3.              石濠吏(石濠の吏)

夕暮れ、この石濠という村に投宿した。その晩、役人が人を徴発しにやって来た。

この家のじじいは垣根を越えて逃げ出して、ばばあが門から顔を出す。

役人の告げる言葉。―――どうしてあんなに怒っているのか。

ばばあの泣きながら言い訳する言葉。―――どうしてあんなに苦しそうなのか。

ばばあが語る、その言葉を聞いて見ると、「わしには三人息子がおったが、みな鄴のお城の守備隊に出た。

末の息子が手紙を寄越した、兄貴二人はこないだ戦死した、とのう。

生き残っている息子も今しばらく生きているだけじゃろう。死んだ息子たちはもう帰ってきますまい。

この家にはわしのほかにはもう誰もおりませぬ(じじいを匿っているのである)、ただ乳飲み子の孫がいるだけ。

それと、その子の母親の長男のヨメが実家に帰らずにおるだけですが、ヨメには接ぎのあたらぬスカートも無い。

このばばあ、力は衰えたとはいうものの、お役人に従うて今夜のうちに出かけましょうぞ。

忙しい河陽の軍隊に連れて行けば、なお朝飯炊きの仕事はできましょう」

夜久語声絶。  夜久しくして語声絶す。

如聞泣幽咽。  泣いて幽咽するを聞くが如し。

天明登前途、  天明 前途に登り、

独与老翁別。  ひとり、老翁と別る。

 そのあと、一晩中、誰も何も言わなかった。

 ただむせび泣きする声だけが、わたしの枕辺まで聞こえてきただけだ。

 朝の光の中で出発しようとするわたしは、

 徴発を逃れたじじいと別れの挨拶を交わしたのだった。

・・・・・・・ドラマチックな展開の中で明らかになる国家権力の横暴に怒りが湧いてくる・・・ひともいるかも知れませんが、貴族で、上の二詩でもお分かりのように「吏」に対しては上から目線の元官僚・杜甫がこんな貧乏な家に投宿するはずないではないですか。善良な杜甫ファソのみなさまには申し訳ないのですが、この詩はどう考えてもフィクションです。そして、この詩の中で批判し、憤っているのは、唐王朝の封建収奪ではなくて、田舎の「吏」の野暮ったさ、冷酷さ、です。

この「三吏」の詩は、彼や彼の同僚でこの詩の読者となるべき「貴族官僚」たちには許せない、あるいは嘲笑せざるを得ない「吏」たちを批判した、ジャーナリスティックな文章であると考えておくべきでしょう。

さて、「三別」の詩ですが・・・と思ったのですが、うひゃあ、またこんな時間か。明日はまたオモテの仕事に行かねばならないので、もう止めます。

とにかく、チュウゴク古典には、人民に同情する詩人はおりますが、反戦詩人(現代ニホンではさらに反戦=反軍らしいが)なんかいないので、そこのところヨロシクご理解くださいネ。

 

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