わたしは四月一日だからと言ってウソは申しません。(ウソを申し上げているとすれば、常日頃から申し上げていることでしょう。)
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市場の仲買人の趙某がはやり病で倒れた。高熱甚だしく、意識を失って、家族の者はもはや助からぬかと覚悟したが、十日ほど生死の間をさまよったあげく、ようやく熱も引き、意識を取り戻したのであった。
意識を取り戻した彼が話したところでは―――
熱が高くなり、めまいがすると思っていたところ、わしは突然やってきた下役の兵卒たちに見たこともない大きな役所に連行されたのだ。
役所の正堂には、常人の二倍ぐらい背丈のあるひとが、緋色の服を着て机を前にして座っていた。自分はその正堂の庭に引き立てられたのである。
自分より前に二人が堂の下に引き据えられている。よくよく見るに、知合いの読書人・孫某とその成人した息子である。
緋色の服を着たひと、大きな声を出し、机をどんどんと叩いて孫某を罵り、
数其刀筆構訟。
その刀筆にて訟を構うるを数う。
何件か、ひとに頼まれて訴状をでっちあげて訴訟を起こし、謝礼を得たことを責め立てた。
孫某は恐れて平伏するようであったが、緋色の服のひとは、
喝卒以戈搗之。
卒を喝して戈を以てこれを搗かしむ。
かたわらの兵卒に大きな声で指示し、彼らの持つホコで某の腹を突かせた。
にゅるるるん。
腸出于腹。
腸、腹より出ず。
腸が腹から出てきた。
その子が泣きながら父を助けてくれと憐れみを乞うと、緋色のひとは今度は息子の方を見据えて、
爾助悪、亦無生理、差幾日耳。
爾、悪を助く、また生理無し、差すること幾日なるのみ。
おまえは親父の悪行を手助けしていたではないか。やはり生かしておくわけにはいかぬ。二三日経ったらまた来るのだ。
と言い、兵卒たちにどこかへ連れて行かせた。
次が趙の番である。
趙は、腹から腸を出したまま「むん、むん」と唸っている孫某の横に座らされた。
緋色のひとは机の上の文書を読み、趙に向かって、
「仲買人か! ひどいことをしておるわ。しかし、一罪だけ足りなかったな。もう一度やり直せ」
と怒鳴ると、かたわらの兵卒に目配せした。
兵卒は
「おう」
と返事をすると、
殴之、傷其目及臂。
これを殴り、その目と臂を傷つく。
趙を殴りつけた。趙は目と片腕を傷つけられた。
「うぎゃあ」
趙は痛みで気を失った――――
・・・・・と、気がついたら、床に臥せっていたのである。
趙は熱は覚めたものの、片目の視力を失い、片腕の自由が利かなくなっていた。
伝え聞いたところでは、同じ流行り病で、孫某は激しい腹痛を起こして既に死んだとのことであり、息子の方も高熱で、もう助かるまいとのことであった。孫某とその息子の下腹部は膨れ上がり、腸が腐乱して外から見ても黒ずんでしまっていたということである。
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清中葉の江蘇・崑山のひと、龔煒の「巣林筆談」巻六より。○○総理大臣が「腹案があります」と言っていたのを聞いて、何だか心配になりまして、この話を紹介しておきます。ほんとに案が入ってればいいのですが・・・。
龔煒(きょう・い)は字を巣林といい、自ら巣林散人と称した。康煕四十三年(1704)の生まれで、没年は定かではないが、乾隆三十年(1765)に「巣林筆談」六巻、乾隆三十四年(1769)に「巣林筆談続篇」をそれぞれ出版しているので、そのころまでは生きておられたのでしょう。「巣林筆談」は、彼の「四十年来」の見聞を記したものである。そこそこおもしろいです。