虞山のひと、魏冲。字・叔子。
彼は美しい少年であった。
丰姿玉立。
丰姿(ふうし)は玉立す。
立ち居振る舞いもゆたかに、立っている姿はまるで玉のように鮮やかであった。
年端も行かぬうちから詩文を嗜み、風雅な言葉を操って、周囲の大人や仲のよい友人たちを驚かせていた。
あるとき、自ら鏡をとって覗き込み、
有美如陳平而長貧賤者乎。
陳平の如きの美有りて、長く貧賤にある者か。
「漢の功臣・陳平は長身の美男子であったというが、この鏡の中の少年も同じように美しいのに、出世しそうにも無いね。」
と傍らの友に笑いながら語りかけた。
友は彼を愛していたが、その言葉には心穏やかでなかった。美しく才能に溢れる友は誇らしい。しかし、この友に何かしら、ひととしての芯が欠けているような不安定さを感じていたのだ。
魏冲は長じて生産を治めず、各地を放浪しながら詩を作り、文を為して暮らしていた。
年三十にしてはじめて科挙試験を受けることとして試験場に赴いたが、貧しく旅の装いをろくろく整えることもできず、さらに
遇盗奪釜鬲、於途従一二貧交乞貸以往。
盗の釜鬲(ふれき)を奪うに遇い、途において一二貧交に従いて乞貸以て往く。
途中でコンロとカマを盗まれてしまって煮炊きもできなくなり、数人の貧しい放浪者たちに道具を貸してもらいながら旅を続けたのだった。
それでも、己れを誇ること高く、
視里中児、以為糞土狗馬、惟不得踐而踏之。
里中の児を視ては、以て糞土・狗馬と為し、踐まんとしてこれを踏むを得ざるのみ。
郷里の若者を見ると、ごみ・どろ・いぬ・うまのようなものだと見下し、踏みつけることができれば本当に踏みつけてしまいそうな勢いであった。
しかしながら、科挙に落第した。
このころから、彼には、自分以外に誰もいない部屋の中で誰かに言い聞かせるように一人ごとを言ったり、路上で憤りを発して意味の無い叫び声を上げたり、奇行が目立つようになった。
かつて彼の傍らにいた友は彼に決して焦ることのないように忠告したが、あまりにも自分とだけ向かい合っていた彼の心には伝わることは無かったかも知れない。
崇禎庚辰の年(1640)の科挙を受けて再び不合格となったのを見て、友は彼に、ある名望家が一族のために設けた私塾の住み込み教師の職を紹介した。彼の生計が成り立っていないのを心配したからである。
彼はその薦めを受けたが、赴任して間もなく、
引鏡自歎曰。
鏡を引いて自ら歎いて曰う。
鏡を手にして覗き込み、自ら歎いてかく言うた。
如此人戴老広文紗帽、他時何面目復対此鏡乎。
此のごときのひと老広文紗帽を戴く、他時何の面目ありてまたこの鏡に対せんや。
このひとは、(田舎の先生がかぶる)古ぼけた幅広の文紗帽をかぶっているなんて、これから先、この鏡に対して恥ずかしくないのだろうか。
そしてすすり泣きし、病を発して床についてしまったのだそうだ。
そのまま、起きることなく、一月ほどで卒した。
―――ああ。
彼に職を紹介した友は、まさにわたくし(銭牧斎)である。
彼がその誇りを失うことを恐れて憂鬱の病を発して死んだのだとすれば、彼を殺したのはわたしなのかも知れない。
私塾における彼の同僚であった王夢鼎というひとが、自らの貯えをはたいて、彼の棺を郷里まで運んでくれた。それゆえ、わたしは彼を祀る文を作り、彼の棺の前に捧げることができたのである。
それからわずか数年の後、北京の明朝は滅び、国土は大混乱に陥って、わたしも兵戦(←対清抵抗勢力に所属したことをいう)と流浪の日々を送ることになり、爾来長く魏冲の墓に詣でることがない。彼は己れの人生に不満であったろうが、その後の乱世の中に巻き込まれた者と比較すれば、実はそれほど不幸でもなかったかも知れぬとも思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
銭牧斎「列朝詩集小伝」丁集下より。
このひとはどう考えても自己愛系のひとなので、深く付き合うと疲れるような気がする。カマとコンロを盗まれたのはかわいそうですが。