平成22年2月9日(火)  目次へ  前回に戻る

超新星。うそ。

あるところで、あるひとが口ずさんでいたのを聴いた。

月華如水浸宮殿。  月華水の如く宮殿を浸しぬ。

有酒不酔真痴人。  酒有りて酔わざる真に痴れびとなり。

 月の光は水のよう―――ひたひたと宮殿中を浸したの。

 そしてお酒がある、なのに酔おうとしないなんて、あなたほんとにおろかもの。・・・@

「それはあなたの作品か」

と問うたところ、そのひとはかぶりを振って、

「これは王衍の「宮詞」という詞の一節でござる」

ということであった。

王衍といえば「蒙求」の「王衍風鑑」の故事で名高い晋の王衍を思い出すひともいるかも知れませんが、この王衍は五代十国の十国の一である「前蜀」の後主(最後の皇帝)の方である。在位915〜925年。歓楽を縦ままにし、実権を宦官に委ねて亡国を導いたという方だ。

亡国――といえば、明の末に清に抵抗して南京に即位し、宏光の年号を建てた福王・朱由ッ(宏光帝。在位1644〜1645)の家の蔵書に「福王楹帖」という対聯集がある。

その中に、

万事不如杯在手、  万事如かず 杯の手に在るに。

一年幾見月当頭。  一年幾たびぞ見る 月の頭に当たるを。

 どんなことだってかなわない さかずきがこの手の中にあることに。

 一年のうちに何度だろうか 月が頭上に皓々とある良夜は。・・・A

という句が遺されている。

あれあれ?

一方は五代のひと、一方は近代(明の末)のひとであるが、@の句とAの句をよくよく読み合わせると、同じ日の同じ情景を二人のひとが表現したかのように似ているではないか。

わしは、

以為荒亡之言、如出一轍是也。

以為(おもえ)らく、荒亡の言、一轍に出づる如しとは是なり、と。

「荒み滅びゆくものの言葉は、同じ車輪が印したわだちのようによく似ている」とはまさにこの@とAだ、と思うたものだ。

しかしながら、「福王楹帖」はもと明の王孟津の書であり、Aの句自体は王孟津の作品でもなく、呉中の名儒・朱埜航の句である、という説もある。本当であろうか。

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清・梁章矩「楹聯叢語」巻一より。

「本当であろうか」と言われましても、わたしもわかりません。もっと勉強しなければ、と決意を新たにするばかりである。

今日は九州時代の仲間が上京してきたので、晩飯を食いました。高級うどん食べました。ついでにウエストのシュークリーム食べました。おいしうございました。はやく九州に帰らんといけんね。

 

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