さあ、出てきた出てきたぞ。(↓とは関係ありません)
5月4日の続き―――――――
「いや、そうではない」
「なにをいうか、こうではないか」
「うるさいのよ、こうなのよ」
と諸説紛々としてまとまらぬ。
「ええい、静まれい!」
関門の上から悟元道士の怒鳴り声がして、みなとりあえず静まった。
「よいか、おまえたち。タオを得る方法には種々あるのである。今おまえたちが挙げたほかにも、
結丹法・・・気功などによっておのれの中に「丹」(究極物質)を作り出し、それを体内に漲らせてタオを得る方法
服丹法・・・外部の物質を組み合わせて「丹」を作り出し、それを服用してタオを得る方法
結胎法・・・気功などによっておのれの中に「胎」(真実を生みだす場)を作り出し、まことの命をそこで育てる方法
脱胎法・・・自分を取り巻く気によって見えないバリヤーを作り、まことの命を育成して、一定の段階まで達したらそこから脱け出す方法
など、
其事多端、作法不一。
その事多端、作法一ならず。
タオを求める入り口はあちこちにあり、手法は一つだけではない。
それらはすべて間違いではないが、その中で自分に一番適した方法は何なのかを選んで努力せねばならないのだ。そして、その最適の方法を選び出すには智恵深い師匠の細かい指図を受けながら学んでいくことが必要であり、自分の知恵を働かして会得することは困難なことなのである。
しかも――。
うそつきどもが、うそを作り、正しい経典を捻じ曲げ、お前たちの前にわなを作って待ち構えているのだ。
一入網中、終身難出。
一たび網中に入らば、終身出でがたし。
ひとたび彼らの網の中に捉えられれば、一生そこから出てくることは難しい。
うそつきどもに騙されないようせよ。
しかし、問題はこれだけで終わらないのだ。
これらうそつきどもの罠に落ちて、祖師たちが設けてくれたさまざまな入り口は真理への道ではない、と思い込んでしまう、それを「猜疑」というのであり、それを乗り越えるのが「猜疑関」なのだ。」
師匠はそこで払子を左右に振った。
すると、
「やっと間に合いまちた。この関門は昇りづらくて・・・」
いつの間にか関門の二階にいた童子が
じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・
とドラを鳴らした。
道士、
「ようし、おまえたち、ひとりづつ関門の回転扉を押して、この関を通り抜けてみよ」
と地べたの我らに命ずる。そう言われてもわしは「猜疑」の前に自分の信ずることさえ無いレベルである。ちょっと自信はない。しかし他の方々は自分が一番と信じている方々であるから、
「ははは」
「道士さまもおひとが悪い」
「あたしたちをお試しになろうなんてね」
と笑いながら次々に回転扉を推してみる。
しかし、どういうわけか。
●回転の軸になるところを一生懸命押してみるばかりで、うんうん唸っても扉がまるで動かないもの。
●扉以外のところを押して、これまた扉が動かないもの。
▼扉をうまく押して、向こう側に行った・・・と思ったら、扉の回転と一緒にこちらに戻ってきてしまうもの。
などなど、誰ひとりとして関門の向こう側に行けないのだ。
階上から道士の声が聞こえる。
以蛍火之明而欲破迷天之網、不求真師、只求于己。
蛍火の明を以て迷天の網を破らんとする、真師を求めずしてただ己に求むるなり。
ホタルの灯り程度の光(のようなお前たちの智恵)で、天をも迷わす網を破ろうとするのだ、真実の師匠を求めず自分自身だけに頼ってどうすることができようか。
「ど、どうしてなのだ」
「わ、わたしは一流の師匠に就いて勉強し、学位も得ているのよ」
「その師匠ともフランクに話しあうぐらいの知識を、おれは得たはずなのに」
みなさまが混乱しているうちにわしの番が来てしまった。
「ここを押せばいいはずなのだが・・・、しかし、一流のみなさまが上手く行かないのだ、わしの如き者が上手く行くはずがないので間違っているのだろうなあ・・・」
と考えながら、回転扉を押してみた。
童子の鳴らすドラの音と、師匠の声が聞こえる。
じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・
吾勧真心学道者、速将猜疑関口打通。
吾は勧む、真心より道を学ぶ者よ、速やかに猜疑関口を打通せよ。
「わしは、真心からタオを学ぼうとする者にいう、速やかにこの「猜疑関」を通り抜けて行け。」
と言われましてもどうすれば・・・。
把生平自負才能技量除去、尋求真師開明奥義、万不可以自己仮聡明。
生平の自負・才能・技量を把りて除去し、真師を尋求し奥義を開明し、万も自己の仮の聡明を以てすべからず。
「普段持っている自分への自信、自分の才能、自分の技量、そんなものをすべて捨て去ってしまい、本当の師匠を尋ね、真理を明かにしようと念ずることだ。絶対に、お前自身の「にせものの賢さ」に頼ってはならない。」
はあ。
自負・才能・技量を除去するのかあ。
あまりに簡単過ぎて、他の方々ならすぐにでも出来そうなこと、その方々がダメなのだからダメなのだろうなあ・・・
と思いながら、扉を押してみたら、
くるり
と扉は回転し、わしは関門のこちら側に通り抜けていた。
「あれ? えらい簡単ではないか、これでほんとにいいの?」
と振り返ってみると、立派に見えた「猜疑関」は実は芝居の書割のようになっておりまして、裏から見ると足組があるだけなのだ。
道士と童子は、はしごの上の足組の上に立って、二階の窓から向こう側を覗いているだけなのである。
童子がちらりとこちらを見て、わしがこちら側に通過したのを確認し、
「肝冷斎、わかりまちたか、猜疑心を外して見れば、実はいろんなことが簡単なことでしかないのでちゅ。真の師匠が
――お前のできない難しいことをやってみろ!
と教えるはずが無いのでちゅよ。さあ、お前はここを通り抜けた。先を急ぎなちゃい。どうせ先でまた関門に出会い、躓くのでちゅから」
童子に促がされて前に進む。
目の前の道は左右に美しい花が咲いているなだからな登り道である。
背後からは道士の説教の声とドラの音が聞こえた。
否則、不証于人、只求于己、不是在外捜尋、便是身内做作、妄想修道難矣。
否なれば、人に証されず、ただ己に求めるのみ、これ外に在りて捜し尋ねるにあらず、すなわちこれ身内に做作(ささく)して、妄想して道を修むることは難いかな。
「そうでなければどうなるか。先に行ったひとから確認してもらわずに自分だけに頼ろうとするのだ。これは、外部のひとの智恵を借りることなく、自分の中にいろんなニセモノを作り出すばかりで、妄りに思うばかりでタオを身につけることは難しいであろう・・・」
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ああよかった、(なかなか解釈の難しい関門でしたが)何とか「猜疑関」を越えることができました。清・悟元道士・劉一明「通関文」より。