↓わしらの底ヂカラ。
崇禎十七甲申年(1644)は李自成がペキンに侵入し明の滅亡した年ですが、この年、大混乱の中で、
河南飛蝗。
河南に飛蝗す。
河南省一帯でイナゴが異常発生した。
古来イナゴの異常発生は穀物を食い荒らし凶作を招くので「蝗害」と呼びますが、このときの蝗害は穀物だけでなく、
食民間小児。
民間の小児を食う。
人民たちの小さな子供を食べた。
のであった。
別に小児が美味だったから小児を食ったわけではなく、小児が逃げるのが遅くまた抵抗が弱いので食われたということであり、少なからぬ大人も食われた。
イナゴの
毎一陣来、如猛雨毒箭、環抱人而蚕食之。
一陣来たるごとに、猛雨毒箭の如く、人を環抱してこれを蚕食す。
一群れが来ると、まるで土砂降りの雨や戦時に降り注ぐ毒矢のように、ひとを取り囲んで、蚕の幼虫が桑の葉を食べるように端から食べて行くのである。
叫ぼうとしても口の中にも次々とイナゴが入り込み、舌や咽喉や食道を食うのだ。
そして、
頃刻皮肉倶尽。
頃刻にして皮肉ともに尽く。
あっという間に皮膚と肉はすべて食べ尽くされてしまう。
骨だけになってしまうのである。
あるひと、イナゴに襲われたが回りのひとが薪木に火をつけて追い払ってくれたので、一命を取りとめた。しかし、眼や舌や尻の穴など軟らかいところはすべて食われてしまっており、七転八倒しているうちに耳の中に残っていた一匹が脳に入って死んでしまったそうじゃ。ひいっひっひっひっひっひ・・・
・・・・・・・いやあ、おそろしいですね。
小生(肝冷斎にあらず。著者の随園先生のこと)の調べたところでは、「北史」によると、南北朝時代に、
蚕蛾食人無算。
蚕蛾、ひとを食らうこと算する無し。
カイコ蛾が異常発生して、人間を無数に食った。
ことがあったそうですが、ほんとうにそんなことがあるのですなあ。
小生は、今の清朝の太平の世に暮らしておりますので、蝗害なんてないので素晴らしいです。
上述の崇禎十七年のときに記録によれば、河南の首府である開封の町では、
城門被蝗塞断、人不能出入。
城門蝗に塞断され、ひと出入りすることあたわず。
城門にびっしりついたイナゴがつながって門そのものを塞いでしまい、誰も出入りすることができなくなってしまった。
そこで、
令不得已発火砲撃之。
令已むを得ず、火砲を発してこれを撃つ。
知事はしかたなく、大砲を出してきて、門そのものを塞いでいるイナゴの群れに向けて発射した。
轟音とともに、玉が飛び出し、
衝開一洞、行人得通。
衝して一洞を開き、行人通ずるを得。
その衝撃によって玉の通った回りに洞穴のような出入り口が出来るので、通行人は背をかがめてそこを通った。
しかし、
未飯頃、又填塞矣。
いまだ飯頃ならざるにまた填塞さる。
飯を食うぐらいの時間(短い時間、の意味)も過ぎていないうちに、またイナゴによって塞ぎなおされてしまったということである。
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久しぶりの登場になりますが、清・袁随園先生「子不語」(新斉諧)巻十二より。こんなキモチ悪い話するなよ。と言いたいひとも多いでしょう。
随園先生が誇っていた大清の太平の世もしばらくするとアヘン戦争やら太平天国の乱やらでまた大いに荒れることになるのですから、おそろしいことですね。われわれの時代はゲンダイだから、こういうことあり得ないからよかったね。(←もちろん反語)