↑あまり深い意味はないのですが、
1月27日から続く。
医閭先生・賀欽、字・克恭は代々浙江の定海府のひとであったが、父が軍籍にあったので、少年時代を山海関外の義州府で過した。
そのころ、科挙のための学問をはじめたが、秀才であり、
為学止於是耶。
学を為すに是に止まらんや。
学問というものをして、こんなこと(試験勉強)だけで終わってしまっていいはずがない。
と言っていたが、それでも成化二年(1466)の進士に挙げられた。
戸部の給事中となった後、上書を奉って
此時遊楽、是為楽憂。
この時の遊楽はこれ楽を憂と為すなり。
いまこの時に楽しみを尽くしていなさるのは、いずれこの楽しみを憂いと変えるおつもりなのでございましょう(か?)。
と諫言して注目され、次いで諫議の職に就いたが、その後事情があって自らを批判し、病と称して辞職した。
その「事情」は明らかではないのだが、あるひとの説では、在職中に、ちょうどそのころ大学にあった陳白沙を知り、やがてそのもとに通うようになり、ついにその門に入って弟子礼をとるようになった。その教えを学ぶうちに
遂澹然於富貴。
遂に富貴において澹然(たんぜん)たり。
とうとう、富を積んだり貴い地位に着いたりすることに、魅力を感じなくなってしまった。
ためである、という。ちなみに「澹然」の「澹」は「淡いさま」。
当時、世間では、
「陳白沙は権勢から離れている様をわざと作っているのであり、それに他人を引き摺りこんでいる。あの賀医閭がだまされた典型だ」
と言われたそうである。
その理由はともかく、医閭先生、辞職してから後は、
構小斎読書其中、随事体験、未得其要、潜心玩味。
小斎を構えてその中に読書し、随事に体験していまだその要を得ざれば心を潜めて玩味せり。
小さな書斎を造ってその中で書を読み、書の内容について事案ごとにそのことを自分の問題として理解することに務め、その本質がつかめないうちは、ずっとその事案のことばかりを考え味わうという生活を続けていた。
かくして、
杜門不出十余年。
門を杜ざして出でざること十余年。
門を鎖して外出しないこと、十年以上になった。
もう腐ってしまったかも知れません。・・・と思っていたところ、ある日、
「とうとうわかった!」
とわかったのであった。
乃見実理充塞無間、化機顕行、莫非道体、事事物物各具本然実理。
すなわち実理の充塞して間無く、化機は顕行して、道体にあらざる莫(な)く、事事物物におのおの本然の実理を具えるを見たり。
「この世界には、実際に働いている「筋道」がいっぱいに詰まっていて、隙間も無いのだぞ。そして、変化の仕組みははっきりわかるように動いており、本来の姿(「道体」)で無いものは無く、事案ごと、物体ごとに本来の実際に働く「筋道」が具わっているのが、この目で見えるようになったのだぞ!」
と言い出した・・・。(以下、次回)
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「明儒学案」巻六より。
(ついにアカシック・レコードが見えた?のか?)
と盛り上がってきたところですが、明日はまた早出です。もう寝ます。