平成21年12月11日(金)  目次へ  前回に戻る

明の嘉靖年間(1522〜1566)のころ、周詩(字・以言)というひとがあった。代々の読書人階級で、医を業とし、一時期は都・北京で名の通った文人たちに交わり評判が高かったが、彼を医官に推薦しようというひとが現われた途端、それを快しとせず、袖を払って北京を離れてしまった。

その後、江西の武林の地に落ち着き、詩文と医を事として半ば隠者のような生活をしていたが、やがて老いて病の床に就いた。

周は北京にいたころまでは妻がいたが子は無く、この妻と死別してから後添いをもらうこともなかったので、後を継ぐ者がいない。

武林では地主で読書人一族であった皇甫家の一隅に住み、当主の皇甫子俊とその兄弟たち(四人兄弟で、いずれも文名が高かった)と親しく交わっていたが、病革まっていよいよというときになり、子俊が意を決したように告げた。

「以言老よ、あなたには妻子がない。わたくしどもはあなたと親戚のつもりで交わってきたが、この時に当たって、どこかに病状を連絡する親戚があれば教えてほしい」

それを聞くと周以言はにっこり笑い、

「自分には跡継ぎも無く、またどこかに実家や親戚があるというわけではない。その証拠に先君(亡父)の位牌を持ち歩いているのじゃ。血筋を絶えさせてしまうのは先祖に対して申し訳ないが、ことここに至ってはしようがないこと。子俊よ、どうぞ心配しないでいただきたい」

と言うた。

子俊、

「おっしゃるとおり、死後の祭祀を絶やすのは最大の不孝である。以言老よ、あなたにもしものことがあったとしても、あなたとご先祖の祭祀は、可能な限りこの皇甫家が執り行うことにしたいと思うので、どうぞご安心いただきたい」

周、

「まことにありがたい申し出だが、それもご心配いただく必要はないぞ。わしとおまえさんたち兄弟とは、わし個人との詩文の交わりじゃ。しかし、先祖の祭祀は先祖以来の交わりのある者に頼まねばならぬ。・・・わしに何かあったときには・・・もうそう遠くなないことじゃが・・・、浙江・常熟の街に使いを走らせて、その市場に「崑山(浙江・松江の地名)の周氏の子孫が絶えた」と掲示してもらえまいか・・・」

これが遺言となって、周以言は亡くなった。

皇甫子俊は自ら葬儀を執り行うつもりでその準備を始める一方で、遺嘱を重んじて念のため、常熟の町に使いの者を遣わし、その市場に周以言の死とその跡継ぎが無いことを掲示させた。

―――――

使いの者を出してわずか十日ほど後には、常熟から長江を遡って一艘の舟がやってきた。日程を量るに、おそらく掲示をしたほとんどその日に出立したのであろう。

舟からは数人の屈強の男たちを伴った白皙、長身の青年が降り立ち、皇甫氏の宅を訪ねたのである。

青年は皇甫家の門前で、

「崑山の周以言どのの亡骸はこちらにございましょうか」

と問うた。

子俊が仮モガリ中の遺骸のもとに案内すると、青年は香を焚いて(自分の尊属にするように)その遺骸の前に三度跪いて拝礼した後、舟から立派な棺を持ってこさせ、周詩の遺骸をこれに移し、周氏の位牌と遺品とともに引き取りたい旨を申し出たのであった。

子俊が

「貴殿は周氏のご係累の方ですかな」

と質問すると、青年は「否」と答えた後、

先人之所属也。

先人の属するところなり。

わたくしの亡父が、わたくしに遺言したことなのでございます。

と言うた。

青年は常熟の富豪で孫耒といい、

「わたくしの曽祖父は以言さまのお父上と友人であられた。二人が若かったころ、お互いの家に何かあったときには、もし寡婦や孤児が生き残っているならその生活の面倒をみることを、もし死に絶えてしまったのならその祭祀を行なうことを、約束しあったのでございます。わたくしはわたくしの亡父から、亡父は祖父から、祖父は曽祖父から、崑山の周氏に何かあったときには、どのような事情にあっても必ずこの約束を果たすよう遺言されてきたのでございます」

そして、嗚咽し、

「周以言どのには一度もお目にかかったことはございませんでしたが、以言どのの父上と我が曽祖父との古い約束をご記憶いただき、我が孫氏をお頼りくださった。おかげでわたくしは、先祖代々に申し訳が立つことになりました。本当にありがたいことでございます」

と告げると、感極まって子俊にとりすがって声を挙げて泣いたのであった。

結局、皇甫子俊は遺品のうちから、「詩文の友」として周以言の遺稿を自らのもとに取り置き、遺骸と位牌を孫耒に託することとした。

半年ほど後、孫耒から周以言の本葬の連絡があったので、今度は皇甫子俊が長江を下り、これに参列した。

本葬は孫氏の先祖代々の墓域の隣に設けられた周氏一族の墓の前で行われたが、その墓石には数ヶ月前に子俊が手紙で頼まれて起草した銘文が刻まれていた。

曰く――

死生之交、諒焉有経。  死生の交わりは諒(まこと)にして経有り。

千秋百世、盟言是徴。  千秋百世に盟(ちか)える言ここに徴(しるし)あり。

生き死にを超えた友情は、誠実で恒久的なものであったのだ。

千年、百世代の後までの約束事が真実であったことの、これ(この墓石)が証しである。

と。

・・・さて。

現代は十七世紀、清の康煕年間である。

迄今百有余年、孫氏之子孫、守其盟不替、歳時祭焉。

今にいたるまで百有余年、孫氏の子孫、その盟を守りて替えず、歳時に祭せり。

そのときから現代に至るまでもう百年以上経っているが、孫氏の子孫は代々先祖の約束を守って、周氏の墓にも季節ごとのまつりごとを欠かさずにいる。

また、今に伝わる「虚厳山人集」は、皇甫一族が出版した周以言の遺稿集であり、その序は子俊の末弟・子安の筆になるものである。子俊兄弟もまた「詩文の友」としての義を全うしたのだ。

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銭牧斎「列朝詩集小伝」丁集上より。

いかにも伝統チュウゴクらしい、かっこいいお話で、訳者なども少年時代にはこういう人間関係にすごく憧れました。

・おとこ同士の篤い友情。

・亡父の遺言を忠実に守る。

・伝統チュウゴクで最も大切な先祖崇拝の重視。

・・・など、いわゆる「嘉話」(美談)の要素をふんだんに持ったイイハナシです、と、思いますが、しかしながら、大土地所有を前提とした明清「宗族制」という社会システムがあったからできることばかりで、もともと経済単位が世帯かいいとこ親族単位で出来ており、それさえ崩壊しきろうとしているゲンダイ日本の真似できるものではありませんので念のため。

 

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