明の時代のことですが、杜黙という男があった。何度か三年に一回の科挙試験に挑んだが、また今回も落第してしまった。
落胆して故郷に帰る途中、暮れなずむころ、ある川のほとりに
項王廟
があった。
項王とは、漢の高祖・劉邦と天下を争い、敗れ死んだ西楚覇王・項羽のことであり、「項王廟」とはその項羽を祀ったお堂である。
杜黙はまわりに誰もいないことを見てとると、お堂に上がりこみ、信仰の対象となっている項羽の木像の前で、したたかに酒を飲んだ。
やがてお堂の外は暗くなった。一晩消えないように灯された永年燭(芯の先が油に浸されており、油が尽きるまでは燃えているのである)の暗い炎がゆらゆらと揺れている。
食事もせずに酒を飲んでいた杜黙の、酔いが回った。
杜黙は立ち上がって、灯火にゆらゆらと照らされている項羽の像に近づき、
据神頚、拊其首而慟、大声語曰、大王有相号者。
神頚に据(よ)り、その首を拊(う)ちて慟し、大声に語りて曰く、「大王に相号する者ありや」と。
神像の首に寄りかかり、神像の頭をぼこんぼこんと叩きながら、泣き声を上げ、大声で神像に向かって言うには、
「項大王よ、あなたにはともに泣いてくれるひとがおありか」
と。
さらに神像の頭を叩いて続けて言う、
英雄如大王、而不能得天下。文章如杜黙、而進取不得官、好号我。
英雄大王の如く、しかれども天下を得るあたわず。文章杜黙の如く、しかれども進んで官を得るあたわず、好し、我を号せよ。
英雄であること大王さまのようであっても、漢の小僧どもに阻まれて天下を取ることができなかったのです。文章の巧みなることわたくし杜黙のようであっても、眼力の無いお偉方に認められず役人になることができないのです。ああ、どうぞ今はわたしのために泣いてくだされ。
そして、
語畢而泪如迸泉。
語り畢うるに泪、迸る泉の如し。
そう語り終えた後、彼は涙をほとばしる泉のように流した。
「ええい、うるさいぞ、なにものだ!」
あんまりうるさいので廟祝(廟の堂守)が気づき、神像にしがみついている杜黙を見つけて、
拉杜下。
杜を拉っしてくだらしむ。
杜黙をひっつかんで堂から放り出した。
杜黙は泣きながら闇の中に逃げ去って行った。
「まったく怪しからんやつもいたものじゃ」
と言いながら、廟祝が傷でもつけられていないかと項王の神像を点検して、
視神目、泪亦涌出。
神目を視るに、泪また涌き出でたり。
神像の目を見たところ、項王の目からも涙が溢れ出していた。
暗い灯火の中でも、はっきりと認められた、ということである。
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マリアさまでも涙を流すのですから、項羽のような激情家が杜黙の言葉に泣かないはずがあるだろうか。
涙と一緒に丼ものを食べたことの無いやつは男として一人前ではないと1980年ごろに聴いたことがありますが、ゲンダイとなっては女の喜ぶものしか売れない時代ですから、男として一人前になんかなる必要もないであろう。
このお話は明・萬暦の文人・曹藎之の編んだ「舌華録」巻十四より引いたが、同書は複数の種本から逸話類を収集した本なので、この話にも種本があるはずですがいまだ確かめえておりません。なお「舌華録」も二三年前、福岡時代に引用した記憶はあるのですが、もう忘れた。わしはダメなニンゲンだからしかたないのです。