昨日はクダを巻いてしまいました。反省しております。
それにしても困った世の中ですなあ。あんまりにおかしいではないか(だって、文化大革命なんだそうですよ。どういう歴史意識なのだろう)。わたしなど世の中にできるだけ随順しようと思っているのに、それでもついて行くのがつらくなってきそうで、右往左往しているわけです。
しかし、世の中には
「世の中がおかしい? そのままにしておけ。ただし、わしの方も世の中からおかしい、と思われてやるぞ、がはははは」
というひともいるので、そういうひとたちの一例として、明の弘治・正徳のころ(弘治=1488〜1505、正徳=1506〜21)に活躍、といいますか、「生きていた」というべきか、「呉中の四才子」とその周辺の方々のお話をしたいと思います。
「四才子」の筆頭に挙げられるのが、唐寅、字・伯虎で、浙江・呉県の呉趨里のひと。
少年のころより才気煥発、郷学に入学したが、親しいひとたちと毎日酒宴を行いほしいままの生活をしていた。その将来性を惜しむひとびとから生活態度を注意されると、突然怒り出しまして、
閉戸経年、取解首如反掌耳。
閉戸して年を経れば、解首を取ること掌を反すが如きのみ。
家の中に閉じこもって一年もすれば、解元になるのも掌を反すぐらいたやすいことじゃ。
と豪語して、実際、三年に一回行われる郷試の一年前から、家に閉じこもって受験勉強を始めた。
「解首」というのは、科挙試験の地方試験である「郷試」の首席のことで、「解元」ともいいます。たいへんな名誉であるし、浙江あたりは秀才のひしめいている地域なので、この地域で「解元」となれば、中央試験の首席になることもそんなに珍しいことではない、といわれた。ちなみに、地方の郷試、中央での会試、最後に皇帝の前で行われる殿試、この三段階の試験ですべて首席になることを「三元」といい、たいへんな名誉とされておりました。
そして、唐伯虎は、弘治十一年(1498)に行われた郷試で、みごと、予告どおり首席となり、翌年の会試の受験資格を得た。
このとき、試験官であった梁某がわざわざ伯虎の答案の写しを作り、北京に持って帰りまして、親友の程敏政に示し、
一解首不足重唐生也。
一解首は唐生に重しとするに足らず。
解元になった、というぐらいではこの文章を書いた唐なにがしにとって、大したことであるはずがないのう。
と二人して嘆息しあった、ということです。
こうして、程敏政というひとに名を知られることになり、彼と文通をする栄に浴した。
・・・禍福はあざなえる縄のごとし。このことが伯虎にとって蹉跌の始まりとなるのだから、この世のことは思い通りにならぬものだ。
(以下、続く)
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「列朝詩集小伝」丙集より。