三村さんが亡くなったので、今日はひとを悼むお話をいたしましょう。
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有人哭和長輿、曰、峨峨若千丈松崩。
ある人、和長輿を哭して曰く、峨峨として千丈の松の崩るるがごとし、と。
和長輿は和嶠のことで、西晋の名臣、武帝のときの中書令となったが、恵帝の元康二年(292)に亡くなった。
和長輿の葬儀の際、あるひと、声を挙げて啼き、言うた。
高々と嶮しく、周りから抜きん出た方であった。いつも仰ぎ見ていた千丈の美しい松が倒れたようだ。
と。
あるいは次のような話は如何。礼の規定ではひとの亡くなったときには音楽は奏してはならぬことを前提に読まれたい。
顧栄(字・彦先。呉の丞相・顧雍の孫で晋に仕えた)が亡くなったときのこと、張翰(字・季鷹。顧栄の幼馴染で、「江東歩兵」(=江南の阮籍)とあだなせられた直情のひとである)が弔問にやってきた。
張は顧栄の好きだった琴が枕元に置かれているのを見つけると、その琴をとりあげ、
鼓琴。
琴を鼓す。
それを弾き始めた。
そして、数曲を弾き終えると、
顧彦先、頗復賞此不。
顧彦先、すこぶるまたこれを賞するやいなや。
顧彦先よ、この曲をとてもよいとほめてくれるか。どうだ。
因又大慟、遂不執孝子手而出。
因りてまた大慟し、ついに孝子の手を執らずして出づ。
そう言うと、また大いに慟哭し、とうとう喪主の手を握るという弔問の礼もせずに、泣きながら帰って行ってしまった。
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いずれも宋の臨川王・劉義慶の撰である「世説新語」傷逝十七より。(ちなみに昨日の「姜維の胆が斗の大きさがあった」という記述、三国志の注には「「世説」にいう」とされているのですが、現行の「世説新語」にはその話が見当たらぬようだ。)
六朝のひとは、感窮まればこのようにニンゲンらしく感情を表現するのです。12〜13世紀ごろから後のチュウゴクのひととはまったく違う心性に見えます。しもじもの人はそんなことは無いのですが、知識人は、礼とか道義といった建て前によってひとの心を圧殺してしまうべきだ、というようなことばかり言う。
六朝貴族のような「ひとの心」をまっすぐに表現する文化の正宗は、世説や文選を有りがたがった日本の文人などに受け継がれていき、チュウゴク自体の文化はまるで「中の人」が入れ替わったみたいに乾燥し残酷なものに変化していくような気がする・・・実際、ハイブリッドしてほとんど入れ替わったということらしいのですが・・・。
ともあれ挽歌。
ひたひたと闇に浸さばされこうべ幾夜の後か君となるべき