本日学んだところによると、御前崎は「御厩崎」だったのですなあ。子泣き石に対して子生れ石もあるのである。
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馬について。
いにしえにはたいへん賢い馬がいたもので、踊りを踊ることができたという。唐の玄宗皇帝のころ、宮中の教坊では百匹の馬を教練して、舞踊させていたというのだ。たいへんすごいことである。
これらの馬は、天宝十五年(756)に安禄山の乱が起こり、皇帝が蜀に蒙塵すると、
流落人間。
人間に流落す。
宮中から民間に散らばって行き、行方知れずとなった。
その後、魏博節度使として権勢を揮った田承嗣のところに、美しい馬が一頭、売られてきた。
「ふふふ、いい馬だぜ。他ではちょっとお目にかかれまい・・・」
田承嗣はこの馬がたいへんお気に入りでご自慢であった。
ある日、賓客たちを招いて宴会となり、
酒行楽作。
酒行われ楽作(おこ)る。
お酒が行きわたり、音楽が奏せられた。
その時、なんと、
馬忽起舞。
馬忽ち起ちて舞う。
お気に入りの馬が、音楽に合わせて立ち上がり、踊りはじめたではないか。
楽にあわせてステップを踏み、時には後足で立ち上がり、あるいは鼓とともに鼻息を吐き、篳篥の音の高下に尻尾を左右する。
「な、なんだ、これは」
承嗣以為妖、殺之。
承嗣以て妖と為し、これを殺す。
田承嗣はあやかしのものと疑い、これを殺させた。
宮中の舞馬のことを知らなかったのである。ああ!この馬のように、才能を理解されず、時にそれを発揮すれば誤解されて消されていく人材はどれほどあるのであろうか。
さて。
唐末の昭宗皇帝(在位889〜904)のとき、宮中に一匹のサルが飼われておりました。
このサルはいろんな芸をする。たいへんに人間に馴れて、婦女にいたずらまでする。皇帝のお気に入りであり、皇帝は
衣以俳優服、謂之侯部頭。
衣するに俳優服を以てし、これを「侯部の頭」と謂えり。
わざおぎどもの着る派手な道化服を着せて、「サル省長官」と称していた。
御茶ノ●博士がロボット省長官(後にロボット福祉省長官)になられた政治志向の強い科学者であったことを思い起こして苦笑するひともあろうかと思いましたが、やはり無いでしょうなあ。
やがて、さしもの唐王朝も朱温(朱全忠)によって簒奪され、世は梁の時代になりました。
梁の太祖となった朱温は、この「侯部の頭」のサルが宮中で見つかったというので、早速引見した。
聞いたとおり、派手な道化の服を着ている。
「くくく、これは珍しいものじゃな」
太祖はサルの手を引っ張った。かつて昭宗がしていたように、
引至坐側。
引いて坐側に至る。
自分の席の側に座らせようと引っ張ったのである。
すると、サルは
忽號擲、自裂其衣。
たちまち號(さけ)びて擲ち、自らその衣を裂けり。
突然、叫び声を上げると太祖の手を引き払い、自分で自分の道化服を破きはじめた。
新皇帝の道化にはならぬ、と意思表示したのである。
太祖は、
叱令殺之。
叱してこれを殺さしむ。
激しく罵り、近侍の者にこのサルを殺さしめた。
もちろん、ありきたりの方法ではなかったという。
ああ。
わたし(←宋の羅大経のことです)は思うのである。
明皇之馬、有愧於昭宗之猴矣。
明皇の馬は、昭宗の猴に愧ずるところ有らん。
玄宗皇帝に養われていた馬は(新しい主人のもとでも踊り始めたのだから)、(新しい主人に仕えようとしなかた)昭宗皇帝のサルに劣等感を感じるところがあるのではないだろうか。
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と、南宋の羅大経が言っております(「鶴林玉露」甲巻六)。
馬とサルは孫行者のことを持ち出すまでもなく、仲の悪いものとされておりますので、そのサルに負けたとあっては、馬は悔しいであろう。