南宋のころ。
江西・高安の近くに脩水という川がある。その川を上流へ・・・川の流れが深い山の間に小さな渓を成すほどになるまで遡っていきますと、小さな渡し場があって、この渡し場を
来蘇渡
というた。
さて、土地の古老に問うてみた。
「何故にかような名前になったのか」
と。
すると古老答えていうに、
――北宋の末ごろ、蘇東坡さまが高安の監酒(造酒監督官)に左遷されていた弟の蘇子由さまを訪ねて行かれたことがあった。そのとき、
経過此渡。
この渡を経過せり。
この渡し場を通られましたのじゃ。
郷人以為栄、故名以来蘇。
郷人以て栄と為し、故に名づくるに「来蘇」を以てす。
このことを村人らはたいへん誇りに思い、これを記念して渡し場の名を「来蘇」と呼ぶようになりましたのじゃ。
「へー、そうですか、それはそれは。では、さようなら」
と普通のわたしどもでしたら古老の言葉など記憶にも留めずに忘れてしまうものでございます。
しかしながら、南宋後半のひと、江西・盧陵の羅大経は違いました。
まず以上のことをきちんとその著書「鶴林玉露」乙編・巻四に記録いたしました。そして、
嗚呼。
と嘆じて、言う。
当時小人媒糵嶊挫、欲置之死地。而其所経過之地、渓翁野叟亦以為光華。
当時、小人媒糵嶊挫して、これを死地に置かんと欲す。しかるにその経過するところの地、渓翁・野叟また以て光華と為せり。
当時、十一世紀末の北宋後期、新法党の小人どもはひそひそと策謀し、要らぬことを仕出かして、蘇氏兄弟を砕いたり挫いたりして、彼らを必ず死んでしまうであろうような危機に追い込んだ。ところが同じころに、彼の通過したこの山間の僻地では、谷川のほとりのじじい、粗野な田舎者のおやじ、みな彼を尊敬し、その通り過ぎたことを光栄なことと考え(て地名に遺し)たのだ。
特定の時代に当路者によっていかに憎まれ地位を低くされたとしても、
人心是非之公、其不可泯如此。
人心是非の公、その泯むべからざることかくの如し。
ひとびとの、何が「正しい」か「正しくない」かを判断するその心はつねに公正であり、当路者の意向によって滅ぼされてしまわないことの証しが、ここにあるといえようか。
所謂石壓筍斜出者是也。
いわゆる「石壓すれば筍は斜めに出づ」というは、是なり。
よくある言い草に「石が押さえつけると、その下のタケノコは斜めになってでも地上に出てくる」というのは、このことであろう。
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「なるほど」
と、一度は頷いてしまったのですが、すぐに、この「地名伝承」は限りなく怪しい、という気がしてまいりませんか。・・・それより、再評価とか名誉回復とか、それ自体がまた後の時代の当路者のあれではないか・・・と思いましたが、ああまた年寄りの僻み癖よ、じじいアワレよの、と哀れがられるだけですから止めておきます。
羅大経、字・景綸は南宋のひと、十二世紀末から十三世紀半ばにかけてのひとで、宝慶二年(1226)進士となり、その後、広西や江西で県令レベルの地方官を勤めたが、朝廷内の争いの影響を受けてはやくに退官して郷里に引っ込んだらしい。・・・というのは、王瑞来先生の「唐宋史料筆記叢刊 鶴林玉露」の「点校説明」に拠る。以前、王先生ご自身から励ましのメールを戴いてたいへん恐縮しました。