平成21年10月 2日(金)  目次へ  前回に戻る

 

処栄辱而不二、    栄辱に処して二ならず、

斉出処于一致。    出処を一致に斉す。

歌黍離麦秀之詩、   黍離麦秀の詩を歌い、

詠剰水残山之句。   剰水残山の句を詠ず。

 栄誉に当っても屈辱に当っても、その態度を変えない。

 世間に出るとき世間から隠れ住むとき、その基準はいつも同じ。

 滅亡した都の跡地を通ったときの感慨をいう「黍は離(みの)り麦は秀(ほをだ)すけれど」の詩を歌い、

 国が滅んだ後も山水が残っていることをいう「水は剰(あま)り山は残っているのだが」の句を声に出す。

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戴良、字・叔能、元の至正二十一年(1361)に淮南江北等処行中書省の儒学提挙(学術振興委員)に任ぜられた。すなわち元朝に仕えたことになる。

ちなみに、「淮南江北等処行中書省」は、淮水の南、長江の北あたり(安徽・楊州の一部)の地域を所轄する「行中書省」、ということです。

「行中書省」は「行(かり=仮)の中書省」の意である。

「中書省」は唐代には八省の一であり、政策調整や皇帝の官房的業務を司った機関ですが、異民族の軍事政権であった元朝の統治システムの中では、民政全般を扱う役所の名称で、一つの「省」ではなく、「行政府全体」のイメージに近い存在です。

元朝は機動性を重んじたから、このような役所を首都の北京(大都)一箇所に置くのではなく、各地に分散させて置いた。これが「○○処行中書省」です。これは時には「処行中書」を略して「○○省」と呼ばれた。この遺制で、現在でもチュウゴクでは地方の行政区域の名称を○○省というのである。

閑話休題。

ところで、至正二十一年は、後に明を建てる朱元璋は既に紅巾賊グループから離脱し、呉国公と称して南京を居所に江南一帯を支配しており、一方、江西には陳友諒の勢力があって、八月、この両勢力が安慶のあたりで激戦を繰り広げていた。戴良は任地に赴くこともできず、戦乱を避けて、名目的に元朝の正朔を奉じながら浙江に勢力を持っていた張士誠のもとに身を寄せた。(張士誠は北京周辺から海路で物資を運びながら、その政権を維持していたのである。)

しかるに至正二十七年(1367)、朱元璋の軍に攻囲され、蘇州に籠もっていた張士誠が城破れ自ら縊れて死ぬと、戴良は家族を連れて東の海に浮んだ。すなわち、海路山東半島に亡命したのである。

山東から内陸、いにしえの斉・魯の地には、なお元末の名将・拡廓帖木児(クォクォティムール)が河南王として勢力を維持しており、これに合流しようとしたものらしい。

拡廓帖木児はもともと漢人で王保保と称したが、叔父にあたるチャハン・ティムールに従って転戦し、チャハン暗殺後はその軍権を引き継いで孤軍奮闘していた。この後、ひとたびは元の順帝やその太子らに疎まれ軍権を剥奪されるが、元朝自体が首都の大都から亡命し、さらに長城の北に明軍に追跡された困難な時期に当って再び軍権を与えられ、漠北の地に一戦して明の常勝の名将・徐達の三十万の軍を破った。この一戦により、以後長く明の勢力は長城の北に及ぶことができなくなった。・・・というような、徐達とともに元末明初の混乱期を代表する用兵家である。なお、明の建国にあまりにも大きな功績を残した徐達の末路など考え合わせますと、

「ああ、エラくなってはいけないなあ」

としみじみ思うのが健康な人間というべきか。

閑話休題。

戴良は結局、拡廓と連絡することができず、いたしかたなく昌楽の町に仮住まいしながら、河南、淮北の豪傑たちを説いて元朝のために立ち上がらしめようとしたのだが、ついに為すところなかった。

洪武六年(1373)。

既に

天下大定、始南還、変姓名、隠四明山海間。

天下大定するや始めて南還し、姓名を変じて四明山海の間に隠る。

天下の行く末がほぼ定まると見てとると(上記の徐達の敗績がこの前年の洪武五年である)、もはや抵抗を止めて、浙江の郷里に帰り、姓名を変えて浙江の山中や海岸の辺境の地に隠れ住んだ。

やがて世の中が平和になってきますと、その前歴も問われることが無くなってようやく郷里の浦江の地に定住した。

しかるに、洪武十五年(1382)、明・太祖(洪武帝)となった朱元璋が全土に人材の発掘を命じると、

前元の儒学提挙

であった戴良は在野の材であるとして半ば強制的に首都・南京に召し出され、若干の文章と詩歌を作らされると、これが太祖の目に止まり、高官を以て仕えるよう命じられたのである。

戴良は既に老いて、また病弱であることを理由に固辞したので、皇帝の意志に背いた罪状を以て南京の旅舎に謹慎となった。

沙汰の降らぬまま翌年に入り、四月、

卒于寓舎。蓋自裁也。

寓舎に卒す。けだし自裁なり。

旅館で亡くなった。すなわち、自決して死を選んだのである。

戴良は元の滅亡後、旧王朝を忘れることなく、

酒酣賦詩、撃節歌詠。聞者壮而悲之。

酒酣わにして詩を賦し、節を撃ちて歌詠す。聞く者、これを壮として悲しめり。

酒が入って酔い出すと、詩を作り、自ら拍子を取りながら歌った。その歌を聞いた者は、その勇壮なことに感じ入り、その望みを得られなかったことを悲しんだ。

その歌の一つが冒頭の詩である。

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清・銭牧斎「列朝詩集小伝」甲集より。これが遺臣というものである。

 

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