明治審議会史覚書
Japanese-Council(SHINGIKAI) memo of the Meiji era
福井仁史(FUKUI Hitoshi)
法学部教授
使用パソコン NEC LaVie
使用ソフト Microsoft Word
明治審議会史覚書
筆者は、平成十年夏から十二年末にかけて中央省庁等改革本部事務局に勤務し、当時「地方分権改革と合わせ、明治維新、戦後改革に続く「第三の改革」と呼ぶ人もあった」(注1)中央省庁等改革に関し、事務方としてその一端を垣間見る機会を得た。その間の経験は、筆者にそれ以降、多くの問題意識を残すことになっているのであるが、「審議会等」という行政組織類型をどう評価すべきか、という問題も、その一つである。本稿は、その問題意識について答えを見出そうとする「悪あがき」の途中経過を報告するもので、今日ではほとんど触れられることのない明治期(大日本帝国憲法発布以降)における我が国の「審議会」型行政組織類型の活用のされ方について、ひととおりの紹介と考察を企図するものである。
(注1)岡本全勝「省庁改革の現場から なぜ再編は進んだか」(二○○一年・ぎょうせい)p4
1 国家行政組織法以前の「審議会」について
まず、用語上の二〜三の整理をしておく。
⑴ 法的位置づけ
ご承知のとおり、「審議会等」という行政組織類型は、国家行政組織法(昭和23年法律120号)によって初めてその定義が与えられたものである。すなわち、昭和58年の改正以前の同法では、附属機関について、
第八条 第三条の各行政機関には、前条の内部部局の外、法律の定める所掌事務の範囲内で、特に必要がある場合においては、法律の定めるところにより、審議会又は協議会(諮問的又は調査的なもの等第三条に規定する委員会以外のものを云う。)及び試験所、研究所、文教施設、医療施設その他の機関を置くことができる。
と規定され、同法第三条に規定されるいわゆる行政委員会との切り分けについて極めて不分明ながら、「審議会又は協議会」を法律の定めるところにより設置できるとされていた。さらに、昭和58年改正後の同法は「審議会等」の見出しの下に第八条を設け、
第八条 府、省、委員会及び庁には、法律に定める所掌事務の範囲内で、法律又は政令の定めるところにより、重要事項に関する調査審議、不服審査その他学識経験を有する者等の合議により処理することが適当な事務をつかさどらせるための合議制の機関を置くことができる。
と規定した。ここではじめて、「審議会等」という組織類型について明確な内容規定(合議により処理することが適当な事務をつかさどる合議制機関)が置かれたのである。(なお、同条にはその後、平成11年の改正で、内閣府が国家行政組織法の規定対象から除外されたため、同条の規定対象にも内閣府を含まないことを明らかにする修正が加えられている。)
したがって、現在においては「審議会等」の概念は(第三条の行政委員会との相異がほとんど見られないものがあることも含めて)明解になっていると考えられるが、昭和23年の国家行政組織法制定以前においては、現在の「審議会等」に相当するものを含め、附属機関については行政官庁法(昭和22年法律69)の規定のように、
第十二条 総理庁、各省、内閣官房及び法制局には、法律又は政令の定めるところにより、所要の部局及び機関を置く。(下略)
とされていただけであり、特別な組織類型として法定されていたわけではなかった。この事情は、行政官庁法以前の各省官制通則(第二次世界大戦後まで通用していたものとしては明治26年勅令122)の下における戦前期においても同様である。
このため、昭和23年の国家行政組織法の規定によって、「第三条に規定する委員会以外のもの」が「審議会又は協議会」といわれる類型を形成する以前においては、これに対応する組織類型は、法令上の分類ではなく、「委員会」や「諮問機関」などとして、事実上ないしは講学上の類型として把握されるしかなかった。
⑵ 事実上・講学上の位置づけ
しかしながら、事実上の組織類型として、「審議会」は、明治憲法下においても、行政実務において重用されていたことは確かである。
商工行政調査会が昭和13年にまとめている「商工省要覧」では「各種委員会」という類型化のもとに、
「・・・官庁行政の側でも、民間との接触に対応するため、本来の官庁行政機構のほかに民間に対する接触面として、各種の委員会が設置されて官庁行政が独善的に陥らないよう、出来るだけ民意を尊重するように注意が加えられる。また同じく官庁行政機構の中でも、問題毎に関係官庁が錯綜しているので、これを彼此調整するためにも各種の委員会が設けられる。・・・」(注2)
として、物価委員会以下の多数の委員会、調査会等の一覧を掲げている。(なお、この一覧に掲げられる「委員会」は、組織根拠について勅令に基づくものとそうでないものが並列され、名称としては「委員会」「委員」「調査会」が混在している(注3))
これに対して、講学上においては、行政機関の一種として「諮問機関」(及び講学上の「行政官庁」のうちの合議機関で各省に所属するもの)という類型が議論されていた。このうち「諮問機関」については、明治憲法期のおそらく最も正統的な解釈体系の中では、
「諮問機関 天皇又は行政官庁に対し意見を陳述することを任務とする機関を謂う。或いは諮問を待たず進みて意見を陳述し得るものあり、或いは諮問に応じて答申にするに止まるものあり。直接に天皇に隷して其の諮詢に応うるの機関たるもの(枢密院)に付いては憲法に於いて論ずべき所に属す。行政法に於いて論ずべき所は唯行政官庁の諮問機関たるものにして、其の種類頗る多く、概ね合議制の組織を為し、或いは官吏を以て、或いは民間より選任したる委員を以て、或いは其の両者を合わせて之を組織す。何れの場合にも諮問機関の決議は唯国家意思を決定すべき参考とせらるるに止まり、直に国家意思たる効力を生ずることなし。」(注4)
と位置づけられているのみである。行政側の意思の決定権限者であるいわゆる「行政官庁」の考察を主とし、意思形成過程についての考察に重きを置かないこの解釈体系の中では、これ以上の考察と分析はなされるはずもなかった、というべきであろう。
(2)商工行政調査会「商工省要覧」(昭和13年・高山書院)p231
(3)同上、231〜267
(4)美濃部達吉「行政法撮要」第四版(昭和8)上p251〜252。(ただし原文はカタカナ書き)
⑶ 「審議会」の用語について
以上から、現在の「審議会等」に相当する戦前期の組織類型についてどのように呼称するかはフリーハンドであると考えられるが、ここでは、後述の阿部斉の論文での使用例に従って、さしあたり「審議会」という語を用いることとする。
2 審議会の機能と意味
「審議会」は戦前期においてどのように利用されていたのだろうか。まず先に、国家行政組織法制定後の「審議会等」についての機能についての所論を整理しておきたい。
⑴ 金子正史の整理
昭和60年代はじめに「審議会等」について整理した金子正史氏によれば、まず、審議会等の存在理由としては、以下が想定されていた。(注5)
@ 行政の民主化(行政への国民(住民)参加)
A 専門知識の導入
B 公正の確保
C 利害の調整
D 各種行政の総合調整
これらは、「それぞれ相互排他的に存在するのではなく、個々具体的な審議会についていえば、重複的に存在し」ているものである。(注6)
金子はさらに、「前述した審議会の設置目的は、あくまでも表向き、いわば建前であり、そのような建前の下で存在する審議会は、現実には設置目的以外の様々な機能(――特に国民(住民)の側からみて否定的機能――)を果たしている。」として、以下の審議会の病理現象を挙げておられる。(注7)
ア 行政当局の原案を追認するための御用機関となっていること
イ 世論の批判をかわし行政当局の責任を転化するための「カクレミノ」となっているこ と
ウ 審議会が国会の代役を果たし国会を形骸化していること
⑵ 臨時行政調査会の整理
昭和39年の臨時行政調査会(いわゆる第一次臨調)答申では審議会の機能による分類を行っている。ここで分類に使用された機能は次のとおりである。(岡本全勝の整理(注8)に従う。)
ア 重要政策、基本的施策等に関する調査審議を行う諮問(調査審議)機関
⑴ 行政部外に関連する事項を所掌するもの
⑵ 各府省の政策・施策に関する事項を審議するもの
⑶ 政策・施策の立案樹立に関するもの
⑷ 利害の調整に関するもの
イ 政策を離れ、国民のために法の適用を公正にするため法令の施行上、行政官庁の意思決定に参加する参与(審査・検定)機関
⑴ 許認可等の行政処分に関するもの
⑵ 試験検定・懲戒等に関するもの
⑶ 行政処分に対する異議申立・訴願等に関するもの
⑷ 独立的権限の行使が認められ、一種の準司法的作用を営むもの
ただし、これらの分類は審議会の機能によるものであり、審議会自体の類型化ではなく、ある審議会が機能を重複して有する場合もあるとされる。
⑶ 行政改革会議の整理
平成9年12月の行政改革会議最終報告においては、審議会の機能別分類として、以下のような分類を行って具体的措置を定めた。(注9)
@)政策審議
A)基準作成 ⇒原則廃止、必要な場合においても最小限のもの、総合的なものとする。
B)不服審査
C)資格・検定
D)調停
E)行政処分への関与 ⇒最小限のものとする。
⑷ 戦前の「審議会」に対する評価
戦前期の審議会については、昭和50年代の阿部斉氏の整理がある。(注10)
阿部は、「審議会制度が設けられるのは、行政国家化が決定的な契機であるといってよい」との認識の下、「審議会制度が・・・みごとに活用されている」イギリスやその他の先進諸国の審議会制度導入過程を紹介する。その上で、明治憲法期の我が国は、立法国家に対比される意味での行政国家ではなく、議会が政治的統合の中枢であった過去の無い「極めて特異な行政国家」であるとし、「こうしたいわば絶対主義的特権官僚制のもとでは、審議会による代表機能の補完は不必要である」という。
この論理からは戦前の我が国では審議会制度は存在しないことになるが、阿部は「しかし、それにもかかわらず、」第二次世界大戦以前から存在する審議会という組織類型に注目した。(注11)
阿部は、「絶対主義的官僚制のもとで、本来的には審議会制度が必要される理由は乏しかったにもかかわらず、それが設置されていた理由」を説明するため、戦前における審議会の存在の理由を二つに整理している。
その一つは「政策立案過程における関係省庁間の調整、実施過程における協力の確保の必要性」であり、今一つは「戦前においても個別企業間の調整の必要、あるいは、政府と財界との意思統一を図る必要があったこと」である。阿部はさらに、前者の機能について「関係省庁間の調整あいる(ママ)は協力の必要性は、戦前においてもけっして小さくはなかったであろう。ただ・・・官僚制におけるセクショナリズムは、審議会による調整によって統合されうるほど脆弱なものではなかったと思われる・・・」とし、後者の機能については、「産業関係の重要な調査会や審議会は、ある程度までこうした機能を果たしていた。」と指摘している。
とりあえず、以下では、阿部のいう前者の機能を「内部統合機能」、後者の機能を「政財調整機能」と称しておく。
(5)金子正史「審議会行政論」1985年・有斐閣(現代行政法体系7)p118
(6)同 p119
(7)同 p119〜p120
(8)岡本全勝「中央省庁改革における審議会の整理・上」自治研究77巻第2号(平成13年2月)p50
(9)岡本・同上 p54
(10)阿部斉「審議会制度の推移」(地域開発1978年1月号)p8〜9
(11)阿部はここで、戦前の審議会と現在(昭和53年)の審議会について、「共通する要素も多い」としながらいくつかの相異点を挙げている。以下の考察における参考として紹介しておく。
「@設置根拠 今日(引用者注:昭和53年当時)の審議会は法律により設置されなければならないとされているが、戦前は明治憲法第10条の官制大権の規定により、一般の行政組織と同様、審議会の設置も勅令事項であった。ただ、実体法によって設置されたものも若干あった。・・・
A名称 現在では、行政委員会と区別するため、審議会には、「審議会」「調査会」「協議会」「審査会」などの名称を付するのが通例であるが、戦前にはそうした区別の必要がなかったため、審議会の名称は「委員会」が普通であった。
B委員構成 多くの場合、関係省庁の職員と学識経験者から成っていたが、相対的に政府職員の比重が高く、とくに委員長ないし会長には、ほとんどつねに官吏があてられていた。民間委員は学識経験者のカテゴリーにおいて選任されていたが、このカテゴリーは主として学者や財界人によって占められており、その他の民間人が委員になることはほとんどなかった。」
3 明治期の「審議会」について
以下の一覧は、大日本国憲法発布以後に存在した法律又は勅令によって設立された組織であって、その名称に「委員会、会議、調査会、審査会」などの用語を含んでいるものを集めてみたものである。とりあえずこの章では、このような組織類型を以下「審議会」と呼ぶことにする。
したがって、ここでいう「審議会」は、講学上の「諮問機関」には限定されていない。一方で、勅令以下の省令などで設置された組織は含んでいない。また、この中には、根拠勅令上「委員」が任命されるのみで、「委員会」の設置について触れていないものがあるが、その根拠勅令中に「委員長」が任命されることになっているため、「委員会」を設けるのと同じ趣旨であると理解して掲示した。なお、台湾・朝鮮に関して設けられた「審議会」については、内地向けに同様のものがあることが多く、繁を避けて挙げていない。
ご承知のとおり、明治初年から、お雇い外国人を含めた学識者を交えて、法典編纂のための会合が開かれてきた(例えば一八七○年代の太政官制度局及び司法省の「民法会議」)。これらについては、明治憲法発布以降まで存在していたわけではないので、ここでは考察の対象としない。また、枢密院やあるいは行政裁判所のように、天皇ないしは国に直属する合議型機関も取り上げない。
文中、@は監督大臣、Aは所掌事務、B会長・委員についての特別な規定(臨時委員の規定などは省略)を指し、特記されていない場合、いずれも設立勅令中の記事。※印は筆者のコメントである。
A 大日本帝国憲法発布以前から存在した「審議会」
憲法発布以前から勅令によって設置されており、憲法発布後も存在した「審議会」は次の三つである。
㈠ 中央衛生会(明治19勅令69)
@内務大臣
A各省大臣の諮詢に応じて意見を述べ、及びその施行方を審議。各省主管事務中衛生に関する事項について建議。
B会長(内務次官)委員(官9、帝大1、医師7、獣医2、化学家2)
※本会の沿革は複雑である。もともと明治十二年七月、この年春に愛媛県松山に発生し全国に波及したコレラに対処するため「コレラ流行時の検疫停船その他のことを審議させるため、臨時に外国人を含めた医師を内務省に招集して」(注12)開催されたものである。同年十二月、同会は内務卿の管理下に恒久化され、中央衛生会及び地方衛生会の職制章程が設けられた(注13)。同会は、明治19年内閣制度導入後に勅令で官制を設け、内務大臣の所管となり、「各省大臣の諮詢に応じ公衆衛生獣畜衛生に関して意見を述べ及其施行方を審議す」ること(同令1条)、「各省主管事務中衛生に関する事項に就ては其主任大臣に建議することを得」るものとされた(同令2条)。(注14)
同会は明治23年勅令154号、明治28年勅令57号でメンバーの変更等が行われている。なお、明治24年8月、地方衛生会についても勅令で「地方衛生会規則」(勅令174号)が制定されている。
(12)大霞会内務省史編集委員会編「内務省史」2(昭和45年・大霞会)p474
(13)内閣記録局編「明治職官沿革表・合本1」(昭和53年・原書房)明治十二年p186
(14)内閣記録局編「明治職官沿革表・合本3」(昭和53年・原書房)明治19年p5
㈡ 東京市区改正委員会(明治21勅令62)
@内務大臣
A東京市域を計画対象区域として、市区改正設計を議定する。同設計は内閣が認可し東京府が事業を施行する。
B東京市区改正委員会組織権限によれば、委員長1、委員25(官15(東京府・警視庁職員含む)、東京府区部会議員10)。
※本委員会以前に、明治17年、東京府知事・芳川顕正の「市区改正意見書」により「市区改正審査会」(会長は芳川)が設けられ、明治18年10月に答申を行っている。(注15)
(15)小野良平「公園の誕生」(2003年・吉川弘文館)p14〜15
㈢ 文官試験委員(明治20勅令38)
@ 内閣総理大臣
A 高等試験・普通試験を管掌。
B 長官、試験委員
※明治20年9月に文官試験委員に任命されたのは、穂積陳重等法科大学教授4人、行政官3人(外務・内務・大蔵)、司法官1人である。(注16)
(16)日本公務員制度史研究会編著「官吏・公務員制度の変遷」(平成元年・第一法規出版)p69掲載写真による。
このほか、明治21年・22年には、砲兵会議官制(21年勅令38号)、工兵会議官制(21年勅令39号)、海軍衛生会議条例(明治22年勅令48号)、海軍技術会議条例(同年勅令53号)、海軍将官会議条例(同年勅令75号)が制定されているが、いずれも軍部内の組織であり、とりあえずここでの考察上の「審議会」からは除外しておく。
B 大日本帝国憲法発布以降の「審議会」
明治22年の大日本帝国憲法発布以降の「審議会」については、年次ごとに整理して掲げる。なお、明治23年に官制の整理が行われ、明治19年以降に策定された官制が全面改正しなおされているものがあり、「審議会」関係では、文官試験委員官制(勅令48号)及び中央衛生会官制(勅令57号)が再制定しなおされているが、いずれも実質面では大きな変更はない。
明治22年
㈠ 医術開業試験委員(勅令62)
@ 内務大臣(管轄)
A 医術開業試験を行う
B 官(医官)のほか、医師・歯科医師・理化学家
※もともと明治十六年十月に医術開業試験規則が定められ、この中では試験委員は、臨時に組織する方法とされていた。このため「在官在野の委員共に其不便を受く因て其組織権限を定め委員を常置し試験は委員業務の都合を量り執行する者と為すなり」(原カタカナ文)として制度化されたものである。(注17)
(17)内閣記録局編「明治職官沿革表・合本3」(昭和53年・原書房)明治22年p104)
明治25年
㈠ 鉄道会議(勅令51)
@ 逓信大臣(当初内務大臣)
A 内務大臣の諮詢に応じ鉄道工事着手の順序その他の事項を審議。主任各省大臣に建議。
B 議長、議員20人(10人は行政官)
※本会議は、鉄道敷設法(明治25法律4)において(原カタカナ文)、
「第十五条 政府は鉄道会議に諮詢して左の事項を試行す
一 鉄道工事着手の順序
二 第十条の決定(筆者注:第一期に敷設すべき鉄道の工費予算の決定。帝国議会の協賛を得る)に基き鉄道工事の都合に依り其の都度募集すへき公債金額
第十六条 鉄道会議の組織は勅令を以て之を定む」
とされたことにより、設立された。(注18)
その趣旨は「鉄道建設に際しては、鉄道庁がさまざまな問題について関係各官庁と個別に折衝する必要があ」り、(予算査定・大蔵省、経過地点・陸軍省・海軍省、土木工事の設計・内務省)「鉄道建設を推進するうえで大きな障害となると思われた。政府はそのため・・・政策決定および建設上における手続の簡略化をはかるため、各関係官庁の代表者によって組織される諮問機関の設置を構想した」ものとされる。(注19)
議員には鉄道庁長官をはじめとする行政側のほか、貴族院議員5、衆議院議員5が加わっており(注20)、単なる連絡会議ではなく、立法補助の機能を含んでいたと考えられる。
また、「鉄道政策に重大な関心を寄せていた東京商業会議所は、明治25年8月、実業界の代表を加えるよう政府に陳情した。こうして・・・渋沢栄一が臨時議員として任命された。」(注21)ことから、政官財を網羅した初の審議会ということができる。
(18)日本国有鉄道「日本国有鉄道百年史」3(昭和46年) p5
(19)同上 p215
(20)同上 p216〜p217
(21)同上 p217
㈡ 土木会(勅令52)
@ 内務大臣
A 内務大臣の諮詢に応じ意見を開陳、主任各省大臣に建議。
B 会長、委員20人(官が15人。なお定員外委員として土木監督署長)
※土木会規則は鉄道会議規則と同日(6月20日)公布で、鉄道会議同様議会側の強い要望によって作られたものである(注22)が、法律の根拠はない。
構成は鉄道会議と似ているが、行政側委員の中に大蔵省が参加していないこと、工科大学教授・土木監督署長が加わっていることに特徴が見られる。
(22)大霞会編「内務省史」1(昭和46年・地方財務協会)p226
㈢ 震災予防調査会(勅令55)
@ 文部大臣
A 震災予防に関する事項の攻究、施行方法の審議
B 会長、委員25人。委員は理学及び工学専門の者より任命。
明治26年
㈠ 法典調査会(明治26勅令11)
@ 内閣総理大臣
A 法例、民法商法及び附属法律の修正案を起草・審議
B 総裁・副総裁、主査委員20、査定委員30以内。(高等行政官・司法官、帝国大学教授、議会議員、其他学識経験ある者)
※明治23年からの民法典論争の結果、明治民法の起草のために設けられたのが本調査会である。(注23)
実際に任命されたのは、総裁・伊藤博文、副総裁・西園寺公望、委員に箕作麟祥、穂積陳重、富井政章、梅謙次郎他14人で、穂積、富井、梅の三人が起草委員として民法案を起草し、他の委員がこれを議論するという形式をとった(注24)。この審議会は行政部内の連絡協議を目指したのではなく、専門家の知識を借りて基本政策(ここでは民法という法律の案)を策定しようとしたものと評することができる。
(23)宮川澄「旧民法と明治民法」(1965年・青木書店)p223〜224
(24)同上 p226〜227
㈡ 貨幣制度調査会(勅令113)
@ 大蔵大臣
A 近時の金銀価格変動の原因・結果、影響、貨幣制度改正方法などの調査審議
B 会長、副会長、委員20人。高等官、帝国大学教授、帝国議会議員その他通貨に関し学識経験ある者。
明治27年
㈠ 薬剤師試験委員(勅令74)
@ 内務大臣
A 薬剤師の試験に関する事務を掌る
B 委員長及び委員若干人
明治28年
㈠ 水産調査会(勅令25)
@ 農商務大臣
A 水産に関する事項について諮詢に応じ意見開申、主任各省大臣に建議
B 会長、委員20以内、官吏又は学識若しくは経験ある者。
㈡ 馬匹調査会(勅令77)
@ 農商務大臣
A 馬制、馬匹改良についての諮詢に応じて意見を開申、関係各省大臣に建議
B 会長、委員25以内、官吏又は学識若しくは経験ある者
明治29年
㈠ 医術開業試験委員(勅令118)
@ 内務大臣
A 医術開業試験に関する事務を管掌
B 委員長、主事2、委員若干
㈡ 薬剤師試験委員(勅令119)
@ 内務大臣
A 薬剤師試験に関する事務を管掌
B 委員長、主事2、委員若干
㈢ 古社寺保存会(勅令147)
@ 内務大臣
A 内務大臣諮詢に応じ意見開申
B 会長1、委員10以内
㈣ 高等教育会議(勅令390)
@ 文部大臣
A 文部大臣諮詢に応じ意見開申、文部大臣に意見具申 (明治31年の改正により学校図書館、公私立学校の管理、授業料、教科用図書その他文部大臣の必要と認める事項についての諮詢に拡大)
B 委員7人以内。帝大総長等、学識ある者又は教育事業に閲歴ある者。
※明治二十七年の第八帝国議会において、貴族院から「教育高等会議及地方教育会議を設くる建議」が出された(衆議院も同旨建議あり)。政府は当初は不同意であったが、「しかしその後文部省でも帝国議会の意向を入れてこれを設置することとし」設立された(注25)学制百年史p291)。教育関係に初めて導入された審議会であり、「事業に閲歴ある者」という委員選定基準を持っている。
(25)文部省「学制百年史」(昭和四十七年・帝国地方行政学会)p291
明治30年
㈠ 海員審判所(勅令78等)
@ 高等審判所は逓信省に置く。
A 海員懲戒法(明治29法69)により海員への懲戒を行う。
B 高等審判所の構成:所長、審判官6、理事官2等
※行政審判を行う組織として設けられた最初の合議機関である。
㈡ 農商工高等会議(勅令188)
@ 農商務大臣
A 農商務大臣の諮詢に応じ意見開申、各省大臣への建議
B 議長・副議長1、議員30。 官吏又は農商工に関する学識若しくは経験ある者
※明治29年に設けられた同名の会議を制度かしたもの。議員30人のうち半数が次官クラスを含む行政官、他の半数は渋沢栄一ほか15人の財界人であり、「要するに、本会議は農商工政策に関する政府の民間実業界の代表者への諮問機関であった。」とされる(注26)。
構成から見て、明治期において、阿部のいう「政財調整機能」(2⑷)を代表する審議会である。
(26)商工行政史刊行会編「商工行政史」上(昭和二十九年・通商産業調査会)p400〜401
明治31年
㈠ 臨時秩禄処分調査委員会(勅令69)
@ 大蔵大臣
A 家禄賞典処分法(明治30法律50)の執行に関する事務を調査
B 委員長1(大蔵次官)、委員9(各省高等官)
※明治初年に行われた家禄、賞典禄の給付の再審査・再処分事務の施行の調査を行うため、設けられたもので、阿部のいう「内部統合機能」(2⑷)の代表的な例といえる。
㈡ 測地学委員会(勅令84)
@ 文部大臣
A 万国測地学協会に関する事務を掌理、測地学に関する事項の考究、主任各省大臣の諮詢に応じて意見を開申、主任各省大臣に建議
B 委員長1、委員10以内。測地学に関係ある官庁の高等官
※意見開申・建議等のほか、国際機関に対する事務を掌理する形の合議制機関である。これも「内部統合機能」を果たしているものと考えられる。
㈢ 塩業調査会(勅令183)
@ 農商務大臣
A 調査、重要事項につき大臣諮詢に応じ意見を開申、各省大臣に建議
B 会長1、委員20以内(官吏又は学識ある者若しくは塩業に従事し経験ある者)
※明治30年代初、外国塩の輸入に対する内地塩業の保護及び台湾における製塩業の開発と内地塩業との間の調整が問題となる中で、「塩業に関する当局側官吏と斯業に経験ある当業者をもって組織し、その意見を徴して世論の統一を図ること」として設置された審議会である(注27)。利益団体である「当業者」を加えている点が注目される。(
(27)商工行政史上(26参照)p552
明治32年
㈠ 鉄道国有調査会(勅令43)
@ 内閣総理大臣
A 私鉄買収に関する調査
B 会長(逓信大臣)、副会長、委員25以内(高等官、帝国議会議員、其他鉄道経済に関し学識経験ある者)
※第13議会で鉄道を国有として全国の幹線の私鉄買収を促進する建議が衆議院で可決され、これに対応して、私設鉄道買収に関する事項の調査に当たるため設けられた。本調査会では建議の趣旨に沿って、鉄道国有化法・私設鉄道買収法の2法案を作成した(ただし第十四議会で審議未了)。(注28)
(28)日本国有鉄道史3(18参照) p50〜54
㈡ 議院建築調査会(勅令159)
@ 内閣総理大臣
A 議院の建築に関する事項の調査
B 会長、副会長、委員16以内(高等官、帝国議会議員、其他建築に関し学識経験ある者)
㈢ 林野整理審査会(勅令179)
@ 農商務大臣
A 国有林野の特別経営に冠する重要事項につき大臣諮詢に応じ意見開申
B 会長、委員11(関係省高等官)
㈣ 関税訴願審査会(勅令249)
@ 大蔵大臣
A 関税法69条により大蔵大臣への訴願を処理
B 会長1(大蔵次官)、委員9(関係各省、帝国大学)
※不平等条約の改訂による新たな条約の発効に当たって、諸外国の例規を参照して、新たに関税法を制定(明治32年法律61)したが、この中で、従来は個別の外交談判によっていた関税賦課に関する不服の処理について、税関長の処分に対する訴願制度が設けられ(注29)、この訴願を処理するため設立されたものである。帝国大学教授を加え、学識経験者を委員とすることで、公正性の確保を図ろうとしたと考えられる。
(29)大蔵省財政金融研究所財政史室編「大蔵省史」1(平成一○年・大蔵財務協会)p360
明治33年
㈠ 日本薬局方調査会(勅令80)
@ 内務大臣
A 日本薬局方改正に関する事項を調査
B 会長1、委員16以内
㈡ 教員検定委員会(勅令135)
@ 文部大臣
A 教員検定に関する事務を管掌
B 会長1、主事1、常任・臨時委員
㈢ 港湾調査会(勅令262)
@ 内務大臣
A 制度調査、関係大臣の諮詢に応じ意見を開申、建議
B 会長1、委員16(関係各省、帝大)
㈣ 理学文書目録委員会(勅令413)
@ 文部大臣
A 万国理学文書目録委員会に関する事務を掌理
B 会長1、委員、幹事1
明治35年
㈠ 政務調査委員(勅令44)
@ 内閣総理大臣(指揮監督)
A 諸般の政務に関する事項を調査
B 30人以内。高等官中から任命。
※本委員は、明治36年度予算に向けて行政整理を行うため任命されたが、桂首相はその「委員長」として法制局長官奥田義人を指名、委員会は7月初めに整理案を作成して桂首相に提出している。桂はこの案を謄写して各省に見せたが、各省は反発し、別案を作成。桂は奥田らの案と各省案をそのまま閣議に提出し、閣議では桂自身が元老の伊藤博文に対して「ホンの御印までなり」と愚痴ったという各省案が採用された。奥田は桂の無責任に失望し、9月に法制局長官を辞任した。(注30)
行政改革(戦前では行政整理)のために行政部内から任命する「委員会」を設置した点が注目される。
(30)宇野俊一「桂太郎」(平成一八年・吉川弘文館)p125
㈡ 鉱毒調査委員会(勅令45)
@ 内閣総理大臣
A 鉱毒の実況・処分方策の調査
B 委員長1、委員15以内。関係省高等官、帝大教授中から任命。
㈢ 国語調査委員会(勅令49)
@ 文部大臣
A 国語に関する事項の調査
B 委員長1、委員15以内
明治37年
㈠ 臨時馬政調査委員会(勅令209)
@ 内閣総理大臣
A 馬匹に関する事項の審議
B 委員長1、委員8(各省官)
明治39年
㈠ 博覧会開設臨時調査会(勅令61)
@ 農商務大臣
A 次回博覧会に関する諸般事項の調査
B 委員長1(農商務次官)、委員若干(高等官又は博覧会に関する学識経験ある者)
㈡ 馬政委員会(勅令127)
@ 内閣総理大臣
A 馬匹改良に関する事項、その施行方法の審議、大臣諮詢に応じて意見開申、議決により意見を開申
B 委員長(馬政長官)、委員4(関係省官)
㈢ 臨時横浜港設備委員会(勅令141)
@ 大蔵大臣
A 横浜港設備に関する事項の審議
B 委員長1(大蔵次官)、委員16(関係省官、横浜市長等、横浜市公民中)
※下の明治四○㈠とともに、地方自治体の長及び地方の公民(実際には市会の推薦により選定)をメンバーに加えている点が注目される。
明治40年
㈠ 臨時神戸港設備委員会(勅令132)
@ 大蔵大臣
A 神戸港設備に関する事項の審議
B 委員長1(大蔵次官)、委員18(関係省官、神戸税関長、兵庫県知事、神戸市長等、神戸市公民中)
㈡ 法律取調委員会(勅令133)
@ 司法大臣
A 指定した民事刑事に関する法律の調査審議
B 会長1、委員50以内
㈢ 美術審査委員会(勅令220)
@ 文部大臣
A 美術展覧会(文展)の出品審査
B 委員長(文部次官)、委員
※いわゆる文展を行うに当たって、出展作品の審査・鑑定を行うために設置されたものである。(注31)
(31)学制百年史(25参照)p655〜656
㈣ 港湾調査会(勅令243)
@ 内務大臣
A 港湾に関する制度、計画等重要事項の調査審議
B 会長1(内務大臣)、委員20以内。関係各庁官、学識経験ある者。
明治41年
㈠ 臨時仮名遣調査委員会(勅令136)
@ 文部大臣
A 国語及び字音の仮名遣いに関する事項
B 委員長1、委員25
㈡ 臨時脚気病調査会(勅令139)
@ 陸軍大臣
A 必要なる諸般の研究
B 会長1(陸軍医務局長)、委員20以内。軍、帝大、伝染病研究所、医師。
㈢ 教科用図書調査委員会(勅令208)
@ 文部大臣
A 小学校教科用図書の調査審議、文部大臣諮詢に応じその他の教科用図書に関する事項を調査
B 会長、副会長、委員35以内
㈣ 条約改正準備委員会(勅令250)
@ 外務大臣
A 条約改正に関する諸般事項の調査
B 委員長1(外務大臣)、副委員長2、委員18(各省高等官)
明治42年
㈠ 臨時軍用気球研究会(勅令207)
@ 陸軍大臣及び海軍大臣
A 気球・飛行機に関する研究
B 会長(陸軍将官)、委員20以内(軍、帝大、中央気象台、気球及び飛行体に関する学術に堪能なる者)
明治43年
㈠ 生産調査会(勅令28)
@ 農商務大臣(管理)
A 生産に関する重要事項の調査審議、各大臣諮詢に応じ意見開申、建議
B 会長(農商務大臣)、副会長、委員70人以内。(高等官、帝国議会議員、学識経験ある者)
※明治三○年㈡(農商工高等会議)の系列に属するものであるが、規模等が格段に大きくなっている。
明治四十一年の二十四帝国議会における政友会の建議を受けて設立されたもので、「生産調査会は衆議院の建議をきっかけとし、したがって両院議員を加えた」(農商工高等会議と比較して)「より大規模なものであった。・・・ようやく成熟してきた日本資本主義の諸階層の矛盾、その利害は、この戦後経営(引用者注:日露戦後経営)のやり方をめぐって噴出してきたのであった。調査会方式はかかる新しい状況への対応を意味していた」といわれ、「以後大正期に引き続く各種調査会の嚆矢をなすものであった」とされる(注32)画期的な審議会であった。
(32)農林水産省百年史編纂委員会「農林水産省百年史」上(昭和五四年・農林水産省百年史刊行委員会) p320〜322
㈡ 国勢調査準備委員会(勅令233)
@ 内閣総理大臣
A 国勢調査準備につき内閣総理大臣の諮問に応じ意見開申、建議
B 会長、副会長1、委員30以内。(各庁官、帝国議会議員、学識経験者)
㈢ 議院建築準備委員会(勅令234)
@ 大蔵大臣
A 議院建築の準備に関する事項の調査
B 委員長(大蔵大臣)、副委員長2、委員27以内。(各庁官、帝国議会議員、学識経験ある者)
㈣ 臨時治水調査会(勅令423)
@ 内務大臣
A 臨時治水に関する重要事項の調査審議、治水に関する事項につき関係各大臣に建議
B 会長(内務大臣)、委員45以内。(各庁官、帝国議会議員、学識経験者)
明治44年
㈠ 文芸委員会(勅令164)
@ 文部大臣
A 文芸に関する事項の調査審議
B 委員長(文部次官)、委員
㈡ 通俗教育調査委員会(勅令165)
@ 文部大臣
A 通俗教育に関する調査審議、大臣の命に依り講演、材料の収集・製作
B 委員長(文部次官)、委員
㈢ 種繭審査会(勅令276)
@ 農商務大臣(中央審査会)(地方にもあり)
A 蚕糸業法23条による原蚕種選定に関する審議、調査
B 中央審査会:会長(農商務大臣)、副会長、委員21以内。(官吏、公吏、蚕糸業に関する学識経験ある者)
㈣ 衆議院議員選挙法改正調査会(勅令284)
@ 内務大臣
A 衆議院議員選挙法の改正に関する事項の調査審議
B 会長(内務大臣)、委員30人以内。(各庁官、帝国議会議員)
大正2年
㈠ 教育調査会(勅令176)
@ 文部大臣
A 教育に関する重要事項の調査審議、文部大臣の諮詢に応じて意見を開申、建議
B 総裁1、副総裁1、会員25以内
㈡ 神社奉祀調査会(勅令308)
@ 内務大臣
A 明治天皇奉祀に関する事項を調査審議
B 会長1(内務大臣)、委員若干
4 明治期の審議会に関する総括
⑴ 阿部の所説について
以上の審議会を一覧して、2⑷における阿部氏の所論を補足しておきたい。
ア メンバーとして行政官庁職員だけを定めているものは、政府の「内部統合機能」の概念で括ってしまうことができるであろうが、極めて早い時期(明治二十五㈠など)から帝国議会議員が審議会メンバーに含まれる例があり(明文化は明治三十二㈠㈡以降)、明治期の審議会には、阿部が存在理由として挙げなかった「立法補助の機能」が期待されていたものがあったと考えるべきである。
イ また、A㈢や明治二十二㈠などの試験委員(会)や複雑な成立過程をたどったA㈠は別扱いにするとしても、かなり早い段階から、いわゆる学識経験者をメンバーに加えるものも多く、既に明治二十五㈢のメンバー規定など単なる「内部統合機能」として整理しきれるとは言いがたいし、技術系だけでなく、明治二十六㈠㈡などは法文系においても「学識経験ある者」をメンバーとして求めている。帝国大学の学長や教員をメンバーに指示するものも合わせ、一般行政官だけでは処理しえない問題に対処するための「専門家への諮問機能」は早い段階から期待されていたと考えるべきである。
ウ 阿部の挙げる今ひとつの機能である「政財調整機能」についても、明治四十三㈠の段階では、議員を加えることによって、単なる政府と財界の間の調整にとどまらず、中小資本家や地主層の利害についても議論の対象となりつつあったと考えるべきであろう。この点は大正期〜昭和戦前期を通じてメンバーの代表する階層は拡大されており(注33)、調整対象を政と財の間だけに限定する必要はないと考えられる。
エ その他、審議会の機能の多様性にも注目するべきであろう。明治三十一㈠のように意見開申・建議に加えて国際団体への対応を行う組織、明治三十二㈣のような不服審査対応組織、明治三十九㈢・明治四○㈠のような地方公民をも取り込んだ組織、明治四○㈢のような出品審査のための組織、明治四十四㈡のような調査審議に併せて講演や資料製作といった実務を行う組織など、多種多様な活用がなされている。
これらから見て、この時期の審議会には、既に2⑴や⑵に挙げた金子氏や第一次臨調が整理している各種機能が萌芽的に現れ始めており、阿部が2⑷で述べている「戦前の審議会の存在理由」は、さらに拡充されるべきであると考えられる。
(33)大正期以降の「審議会」についてはいずれ改めて整理する予定であるが、とりあえず昭和十三年の物価調査委員会には産業報国会理事や母性保護連盟委員長らも参加している例を挙げておく。(商工省要覧(2参照)p233)
⑵ 神社奉祀調査会の場合
さて、特に大正二年㈡の神社奉祀調査会については、山口輝臣氏が歴史家の立場から興味深い叙述を行っているので、これに触れておきたい。氏は、明治神宮の設立に至る過程で設置・開催された同調査会の設立過程について、
「政府関係者、とりわけ原敬の周辺ではかなり早い時期から、明治天皇を祀る神社については、調査会を設置して対処するという方式を考えていた。・・・・この調査会という方式には、さまざまな期待が込められていた。」(注34)
とし、その期待の内容について次のような諸点を挙げている。
「継続性の保証。・・・調査会を政権交代などに連動しない形で設置すれば、安定した調査が可能となる。目前で展開した大正政変は、この形式の有効さを再認識させたことだろう。
あるいは専門性の獲得。行政当局者をもってしては十分な調査が行えないと予想される場合、その分野の専門家を委員に委嘱すれば、調査会は、専門的立場からする議論の場と位置づけることができる。・・・
一方、委員に各界の主要人物を網羅すれば、調査会を、各界代表者の総和としての国民の代表とみなすことも可能となる。・・・またそこでは各界の間における利害調整の機能も付随し得る。」(注35)
こうして、大正2年8月、閣議に提出された「明治天皇奉祀の神宮創設に関する件」によって神宮創設調査委員会の組織の方針が固められ(閣議決定自体は10月)、12月「神社奉祀調査会」の官制が定められた。同調査会は、12月末の第1回会合をはじめとして、翌大正13年11月に第8回の会合を開き、神宮の創設、鎮座地の決定、神宮の名称など、について調査していくことになる。この調査会には、渋沢栄一や阪谷芳郎(当時、東京市長)など、明治神宮を東京市内に誘致しようという考えを表明しているひとたちが有力なメンバーとして参加しており、明治神宮の青山鎮座、外苑の設置などへと調査会の議論をリードしていった。(注36)
この調査会は、「審議会」の新たな姿を現しているように見える。
一つは、大正政変とその後の大正デモクラシーという時代において、審議会で議論を行うことによって政策の「継続性の保証」がなされる、という、審議会を、「ガラスの靴」として機能させようという考え方である。政党の交代を超えて一定の政策の推進を続行させる手段として、行政組織である審議会の設置という手法が用いられるようになった。
次に、審議会による「専門性の獲得」と「国民の代表性」や「利害調整の場」としての機能の保有への注目である。これらの機能は、いわば誰が世界で一番の美人であるかを教えてくれる「魔法の鏡」のように、専門的知識や国民の総意といった「権威」を政策に与えてくれることになる。
(34)山口輝臣「明治神宮の出現」(吉川弘文館・平成十七年)p144
(35)同上 p145
(36)同上 p154〜162、p166〜178
5 終わりに
少し時期は下るが、「法学」の立場から国家を解析した美濃部に対して、「政治学」という立場から国家諸制度を読み解こうとした臘山政道は、昭和初期に、「諮問機関」について、これを政治上の諮問機関と行政上の諮問機関に分類し(分類の基準については今ひとつ明確ではないが)、
「政治上の諮問機関は、議会又は枢密院の如き憲法上の機関以外に之を常設的に設くることは憲法違反若しくは非立憲の処為とされている。然し、我国に於ては、何々調査会又は審議会等の名の下に、実はこの政治的諮問機関たる実質を有するものが数多く設けられている。仮令名称は何んとあろうと、今日に於ては内閣は立法上の参考として、この種の諮問委員会を利用する。」
と、立法機関の代替となりうる諮問機関の使用を否定しつつ、
「議会に議決を経たる立法の遂行に関し、或は立法草案の作成に関し、官公吏以外の民間の人士によって組織せられたる機関であって、純然たる行政機関と協力して、行政そのものの遂行に参加するものである」
ところの「行政上の常設的諮問機関」については、
「現代国家は直接間接に民意の承認によって成立している。・・・若し、行政の分野に於て、このデモクラシーの要求を実現し、新に再考察されたる承認の異議に基く制度を設けんとせば、その意義たるや行政学上の考察を遂げねばならぬものである。而して、行政上の諮問機関がそれに外ならぬ。」
と高く評価した。
その上で彼は、この行政上の常設的諮問機関については、その「諮問委員会の会長が我国に於いては必ず政府の代表者たること」から諮問委員会の自律的行動とその責任を確保することになっていない点、「諮問事項と審査又は調査事項とに関する文書を公開しない」ために、「デモクラシーと行政とを結合する為めに設けられた諮問委員会を無意義ならしめる」点を批判している。(注37)
臘山の所論は、民主的契機の中で「諮問機関」を位置づけようとする方向での分析と批判、提言を含んだものであり、昭和初期の段階で、すでに「諮問機関」についてこれだけの批判的提言を受けるに値する活用がなされていたことの証左である。
さらに七十年を経て、平成十一年の審議会等整理を実務側で取り仕切った岡本全勝氏は、審議会等をめぐる現代的課題の本質は、その数が多いことにあるのではなく(これ自体も問題であったが)、その運用にあることに注目し、「諮問権者(通常は大臣)は・・・審議会に問題の検討を「白地で」依頼したり、「丸投げ」をしたりすることのないように・・・大臣の「知らないところで」結論が出ているようなことは、厳に避けなければならない。」(注38)ことを指摘している。
また、「官僚が審議会の答申を「お膳立て」し、その結論を導くために「根回し」をしているとの批判・・・」(注39)を前提に「行政責任の明確化、政治主導の確立」を目指し、「行政責任の明確化の観点から、・・・諮問する者と答申する者が同じでは、「隠れみの」「お手盛り」の批判は避けがたい」として「委員の資格の厳格化」を推進したことを吐露している。
実務家らしいイメージ豊富な言い回しを用いながら岡本氏が再三指摘しているのは、審議会等は運用指針を誤らねば有用な行政組織類型である、ということに尽きるであろう。
金子が2⑴ア〜ウに挙げているような「病理的機能」を持つとしても、我々は、我々の歴史的条件の下で、審議会という組織類型を「上手に」使いこなしていくことが求められるのであろう。さてしからば審議会をどのように使えば「上手に使いこなした」といえるのか、が次の問題である。
(37)臘山政道「行政組織論」(昭和5日本評論社)p295〜298
(38)岡本全勝「中央省庁改革における審議会の整理・下」自治研究77巻7号(平成13年7月)p72
(39)同上 p73