ネコたちの存在に、生への執着を感じることができるであろう。
もう夏も終わりですなあ。世間さまでは「そろそろ肝冷斎も現世に還るのでしょうね、シゴトしに」とウワサしているとか。「我等は此処に滅す」ることを理解してしまっているわしが、そちらに還るはずはないと思いますがなあ。
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不当趣所愛、 愛するところに趣(おもむ)くべからず、
亦莫有不愛。 また愛せざるも有るなかれ。
愛之不見憂、 これを愛せば見ざること憂いとなり、
不愛見亦憂。 愛せざるを見るもまた憂いとなる。
愛するものを作ってはいけないなあ。
愛さないものもあってはいけないなあ。
何かを愛してしまうと、それを見ないことが悩みとなり、
愛さないものがあると、それを見るのがまた悩みとなるからなあ。
うそかほんとか試してみなされ。
さて、歴史上のお釈迦さま、すなわちゴータマ=シッダールタの肉声のいくばくかを伝えていると言われるのが、パーリ語仏典の「ダンマパダ」で「真理のことば」として岩波文庫にも入っておりますが、これを千数百年昔に漢訳したのが「法句経」です。長らく注目されることのなかったお経ですが、明治以降、欧米の仏教学の中で「ダンマパダ」が重要視されていることを知った日本仏教学によって再発見され、昭和前期には一般にもブームを起こしたのだそうです。
それでは上記の漢訳(「愛敬品第十六」)はパーリ語仏典ではどう書かれているかというと・・・と思ったんですが、岩波文庫の中村元訳「真理のことば・感興のことば」が見つかりません。部屋の中の地層の下部に埋もれたものと思われます。
そこで、昭和九年(1934)の友松圓諦師の「法句経講義」から日本語訳を引いてみると、
愛する者らと相逢うことなかれ
愛せざる者らとも又しかるべし
愛する者を見ざるは苦なり
愛せざる者を見るは又苦なり
だいたい同じですね。すばらしい。
我等此処滅、 我等は此処に滅す、
愚者不覚之、 愚者これを覚らず、
人若覚之 人もしこれを覚らば、
自其争息。 それよりして争い息まん。
わしらはこの世界では必ず消滅するんですわ。
ところがオロカモノはこのことを理解しない。
ひとがもしこのことを理解すれば、
それによってどんな争いごとも終息してしまうであろうに。
「双双品第一」より。みなさんがこのことを理解してないといけませんので、はやく理解してもらおうかと思ったんですが、これは友松先生の訳だと、
われらはここ 死の領域に近し
道を異にする人々はこのことわりを知るに由なし
このことわりを知る人々にこそ
かくしていさかいは止まん
パーリ語仏典を参照すると、漢訳の「愚者」は「道を異にする人々」とされていますから、いわゆる「外道」のようです。みなさんはオロカモノだと思いますが外道ではないから当てはまりませんね。
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「法句経」より。コドモのころおやじの書架に友松圓諦師の「法句経入門」があって、読んでみたがコドモ向けではなかったので5ページぐらいで止めました。おやじも10ページぐらい読んでただけみたいなので、大人向けでもなかったのだと思います。
今日は昼間炎熱の中、野外調査をしていたので、くらくらしました。自らの愛憎の内熱と同じぐらい暑かった。みなさんだとこの内熱の方が熱いから今日の暑さも大したことないんだと思いますが、わしは内熱がだいぶ冷めているので、暑かったなあ。わははは。(←増上慢)