明日はいい日になるでぶー。今日までもだいたいいい日だったでぶー。
平成終わり。さすがに今日は、この31年間に亡くなった身近なひとなど指折り数えてみて、涙にじんできた。そして、人生の佳き時間をなんと多くムダに使ってしまったことか。・・・と、反省はもちろんするんですが、そうするより他にしようもなかった気もしますから、まあよしとするか。
・・・・・・・・・・・・・・・・
さてさて、
蛮夷為害、自古有之。漢命五将、矯胡臣服。周労再駕、荒俗来王。
蛮夷の害を為すはいにしえよりこれ有り。漢は五将を命じて、胡を矯めて臣服せしめ、周は再駕を労して、荒俗を来王せしむ。
野蛮なやつらが悪いことをするのは、むかしからよくあることである。チャイナでも、漢の武帝は驃騎将軍など五人の将軍を任命して、胡族の根性を直させ、臣として仕えさせた。周の文王は二回出かけて、やっと遠い地域のやつらもその王道に感激して来貢するようになったのである。
周の文王が二回出かけた、というのは、「春秋左氏伝」襄公三十一年に衛公のコトバとして出て来る「文王再駕」のことです。
文王伐崇、再駕而降為臣、蛮夷帥服。
文王の崇を伐つに、再駕して降りて臣と為り、蛮夷も帥服す。
文王が崇侯虎を討伐した際、(一回降伏させえて赦したところまた叛いたので、)二回出かけて降伏させてやっと臣下として仕えることになり、(そのことを聞いて)野蛮人どももみんな服するようになった。
のだそうなんです。
さて、養老四年(720)春、大隅の隼人どもが乱を起こしたのでございます。
今西隅等賊、怡乱逆化、屢害良民。
今、西隅等の賊、乱を怡(よろこ)び化に逆らい、しばしば良民を害せり。
このたびは、西の隅あたりにいる悪いやつらが、乱れた世界が好きで王道に化されるのを嫌がって、またも普通のひとたちに害を及ぼすに至ったのである。
そこで、
遣持節将軍正四位下中納言兼中務卿大伴旅人誅罰其罪。
持節将軍・正四位下・中納言兼中務卿、大伴旅人を遣わして、その罪を誅罰せしめたり。
持節将軍・正四位下・中納言兼中務卿の大伴旅人を派遣して、反乱者を誅伐し罰せしめたのである。
旅人どのは見事に、
尽彼巣居、治兵率衆、剪掃凶徒。
かの巣居を尽くし、兵を治め衆を率い、凶徒を剪掃せり。
やつらの根拠地をことごとく攻め、武器を使い兵士を指揮して、悪い奴らを切り払ってくれたのだ。
これが同年六月のことでございます。
酋帥面縛、請命下吏、寇党叩頭、争靡敦風。
酋帥は面縛し、下吏に命を請い、寇党は叩頭して、争いて敦風に靡く。
田舎者の族長たちは後ろ手に縛られて、旅人の部下に命乞いをし、反乱軍に加わった者たちは頭を地面に打ちつけて土下座しながら、争って将軍の手厚い風情に靡くように降伏してきたのだ。
そこで、陛下(元正天皇)よりおコトバです。
然将軍暴露原野、久延旬月。時属盛熱、豈無艱苦。
然れば、将軍は原野に暴露し、久しくして旬月に延ぶ。時は盛熱に属し、あに艱苦無からんや。
「されば、将軍は原野に雨曝しになってもう十日や一か月という期間より長くなられた。今や盛夏の時節である、どうして苦しまれていないといえようか。
使使慰問、宜念忠勤。
使いをして慰問せしむ、よろしく忠勤を念ずべし。
使者を遣わして、慰労のコトバを伝える。今後もよく忠勤に励むがよい」
討伐した側もされた側もツラいんですが、それを乗り越えて、やっと今の日本があるんです。先人たちに感謝しなければなりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「続日本紀」巻八より。このあと、右大臣不比等の卒することがあり、旅人は急ぎ都に帰りますが、その後神亀五年(728)、今度は太宰帥として筑紫に至り、山上憶良やら沙弥曼誓らと大宰府歌壇を構成することになって、天平二年(730)、初春令月、気淑風和の季節に梅を見て歌を詠むんです。