われわれは秋になってくると動きが鈍くなり、ぶたまるたちにも捕らえられるようになってしまうんでつくつく。ムシとブタではブタの方が高級なのであろうか・・・。
おいらのようなつくつくぼうしにシゴトさせるニンゲン社会、もう勘弁してもらえませんかね。
そのうちすごい失敗すると思うのですが、失敗したら「あのつくつくぼうしのせいだ、みんみんぜみはよくやっていたのだが、つくつくぼうしはダメだった」と言って、みなさん頬かむりなんでしょうか。
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ミンミンゼミとツクツクボウシのようなムシ同士を比べてどうなるというのか。
小奴縛鷄向市売、 小奴、鷄を縛りて市に向かいて売らんとし、
鷄被縛急相喧争。 鷄は縛られて急に相喧争す。
家僕の童子がニワトリを縛り上げて、市場に売りに行こうとした。
「コケコケ―!」 ニワトリは縛り上げられて、すごくうるさく騒いでいる。
「なぜそんなことになったのだ」
と童子に訊いてみますと、童子、
「実はでちゅねえ・・・」
と答えるには、
家中厭鷄食虫蟻。 家中鷄の虫・蟻を食うを厭う。
不知鷄売還遭烹。 知らず、鷄の売られてまた烹らるるに遭うを。
家中の女コドモどもが、ニワトリがムシやアリを食べているのを見て、「ムシちゃんやアリちゃんがかわいそう」と言い出したからだというのである。
「ニワトリだって売られれば、なべに入れられて煮て食べられるんだぞ。そんなことは想像できないのか」
と言ってみますが、
「想像できないんじゃないでちゅかね」
と童子は言って、にやにやしているのであった。
ああ。
虫鷄于人何厚薄、 虫と鷄と、人において何の厚薄あらんや、
吾叱奴人解其縛。 吾、奴人を叱りてその縛を解かしむ。
ムシとニワトリ、ニンゲンから見て、どちらが大事か大事でないか、という別があるだろうか。
わしは、その下僕を叱りつけて、縛めを解かせた。
「おいらに怒ったってしようがないじゃないでちゅか」
とぶつぶつ言っているのはそのとおりなのだが・・・。
それにしても、
鷄虫得失無了時、 鷄・虫の得失、了時無かるべく、
注目寒山倚山閣。 目を寒江に注ぎて山閣に倚れり。
ニワトリが得をすればムシが損をし、ニワトリが損をすればムシが得をする、というこの競争関係はいつまで続くのであろうか。
わたしは、寒ざむとした川の流れに目をやりながら、我が家の山側の部屋の手すりに身をもたせかけて、ため息をついた。
ニワトリとムシに喩えながら、ニンゲン社会のゼロサム的な争いが終わらないのを、嘆いているんです。
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唐・杜甫「縛鷄行」(縛られたニワトリのうた)。大暦元年(766)、杜甫先生が四川・夔州の地にあって作ったものです。この年の春、四川で彼の庇護者であった太守の厳武が急死してしまい、杜甫先生の生活がまたまた苦しくなってきて、どうしようかと悩んでいるころの作品です。先生は翌春、親戚の者を頼ることにし、長江を下って、最後の旅に出ることになる。
・・・というように、ニワトリとムシでさえ本来どちらが大事か大事でないか差別が無いんです。ミンミンゼミとツクツクボウシを比べてどうこうと言われても困るのでつくつく。