無常なり。世の中は何か常なるあすか川 きのふのふちぞけふは瀬となる(古今集)
寒くなったし、シゴトつらいし、感情無し。コドモっぽさもなくなってきたな。
・・・・・・・・・・・・・・・
人肯当下休、便当下了。
人あえて当下に休せば、すなわち当下に了す。
ひとは、(何事であっても)今ここで一気に止めてしまおうとするならば、確かに今ここで一気に終わりにすることができるものである。
しかし、
若要尋個歇処、則婚嫁雖完、事亦不少、僧道雖好、心亦不了。
もし個の歇(や)む処を尋ねんことを要(もと)むれば、すなわち婚嫁完するといえども事また少なからず、僧道好ろしといえども心また了せず。
もし、止めるべき適切なときを探り求めたりするなら、例えば息子や娘の結婚を終えたら・・・と思っていても、そのあとでも俗事は次々に起こるものであるし、僧侶や道士の生活はすばらしい、いつかは出家を・・・と思っていても、心が決まりきる時なんて来ない。
とにかく今ここで、止めてしまおう。
前人云、如今休去便休去、若覓了時無了時。見之卓矣。
前人云う、
如今(じょこん)休し去らばすなわち休し去れ、
もし了時を覓(もと)むれば了時無し。
と。これを見ること卓なり。
いにしえの人がおっしゃっている。
いま、まさに止めてしまうなら止めてしまうがいい。
終われる時を求めていたって、終われる時なんて来ないんだから。
これは卓見である。
・・・・・・・・・・・・・・・・
明・洪自誠「菜根譚」後集より(第十五条)。
わしの言いたいことそのままである。よし、明日こそ・・・。