←週末だから生き返った?
もうダメだ。やっと金曜日だが今週はつらかった。来週もつらい予定です。自分を取り戻すにはどうしたらいいのか、というか五日間も会社があったので、もう自分なんていたのかどうかもわからないぐらいすりつぶれてきた。
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唐の僧・瑞巌師彦(ずいがん・しげん)は、
毎日自喚主人公、復自応諾。
毎日、自ら喚(よ)びて「主人公」といい、また自ら応諾せり。
毎日、自分で「(この心身の)主人公どの」と自分で呼びかけ、また自ら「はい、そうです」と答えるのであった。
変な人ですね。
さらに、こうも言うのであった。
惺惺着。諾。
惺惺着(せいせい)と着せよ。諾(だく)。
「いつも目覚めているんだぞ」「はい」
それから、
他時異日、莫受人瞞。諾、諾。
他時異日にも人の瞞を受くることなかれ。諾、諾。
「ほかのどんな時にも、他人に騙されたりしてはいけませんぞ」「はい、はい」
と。
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ピン芸人の芸なのかな、と思ったカモ知れませんが、落ちが無い?ので、芸ではないんです。「主人公」という言葉の語源になった有名なエピソードなんです。「五燈会元」巻七より。
・・・さて、無門禅師曰く、
瑞巌老子、自買自売、弄出許多神頭鬼面、何故。
瑞巌老子、自ら買い自ら売り、許多(そこばく)の神頭鬼面(しんづきめん)を弄出するは何故ぞ。
―――瑞巌じじいは、自分ひとりで買ったり売ったりと、ずいぶんとひどく、精霊の頭やら妖怪の顔やらみたいな変なすがたを見せなさった。これは何故だろうかな?
「オレオレ詐欺に引っかからないようにするためではありませんか」
と言ってみましたが、相手にされません。(ぼかん、と警策で殴られた。)
―――ここは大事なところだぞ。
一箇喚底、一箇応底、一箇惺惺底、一箇不受人瞞底、認着依前還不是。若也倣他、惣是野狐見解。
一箇の喚ぶもの、一箇の応ずるもの、一箇の惺惺たるもの、一箇の人に瞞を受けざるもの、認着すれば前に依りてまた是ならず。もしまた他に倣わば、惣べてこれ野狐の見解(けんげ)なり。
―――一つは呼びかけているのがいる。一つは答えているのがいる。一つは目覚めているのがいる。一つは他人に騙されてないのがいる。しかし、このうちのどれかが「主人公」だと認めてしまったら、これまで(の何回かの輪廻のとき)と同じで大失敗だ。しかし、瑞巌じじいの真似なんかしたら、これはまたお寺の近くの野原に棲んで、悟ったようなふうをして他人をたぶらかしていた野キツネと同じになってしまうぞ。
うわー、これは大問題ですね。
でも答えは簡単。↓のとおり。
無量劫来生死人、 無量劫来の生死の人を、
痴人喚作本来人。 痴人喚び作す「本来人」と。
何万回も生まれ変わる原因となっている「それ」を、
おまえさんたち愚か者は、「これが自分だ」と思い込んでいるのだけなのだ。
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宋・無門慧関「無門関」第十二「瑞巌主人公」。無門禅師は優しいのでなんとかわかったようにしてくれます。「主人公」は「自我」じゃないんです。