平成27年6月13日(土)  目次へ  前回に戻る

夏のブタには港町がよく似合うでぶう。

今日は暑かったけど、休日だったからゴキゲンでしたわー。うはうは。

「昨日まであんなにウツウツ・ウダウダとしていたのに、なんで今日はそんなに好調なのだ?」

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臣聞、絃有常音、故曲終則改。

臣聞く、絃には常音有り、故に曲終わればすなわち改む、と。

わたしはこのように聞いたことがあります。「楽器の絃には、その絃ごとに固有の音があるものなのだ。だから古代の楽師たちは、一曲を演奏し終わると、絃を張り替えてから次の曲を演奏したのである」と。

また、

鏡無畜影、故触形則照。

鏡に畜影無し、故に形に触るればすなわち照らす。

「鏡は映したものを蓄えておくということがない。だから何かがその前に来たら、即座にそのものを映し出すことが出来るのだ」とも。

よって、

是以虚己応物。必窮千変之容。挟情適事、不観萬殊之妙。

ここを以て己を虚にして物に応ずれば、必ず千変の容を窮めん。情を挟みて事に適さば、萬殊の妙を観ず。

このことから、自分を空っぽにして物事に対応するならば、必ず千種類に姿を変化させて対処していくことができるだろう。こちらの気持ちを持ったままで物事に対応しようとすれば、一万種類に変化するようなスバラしい対処はできまい。

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晋・陸機「演連珠」(「連珠をする」)(「文選」巻55所収)より。

おのれを虚にして対応するほどの技量はありませんが、一曲終われば絃を張り替えるものなので、おいらは平日と違う人格なのでーちゅ。平日になったらまたウツウツウダウダに変化すると思いますよ。

ところで、「連珠」というのは、後漢から晋にかけて流行した詩形だそうで、

其文体辞麗而言約、不指説事情必仮喩以達其旨、而覧者微悟。

その文体、辞麗して言は約、事情を指説せずして必ず喩を仮(か)りてその旨を達し、しかして覧る者微悟す。

その文体は、文章は麗しく、コトバづかいは短縮し、具体的な事件を指し示すことはせず、必ず譬喩を用いて言いたいことを明らかにし、読者にはかすかにわからせよう、という仕掛けである。

合於古詩諷興之義、欲使歴歴如貫珠、易看而可悦。故謂之連珠。

古詩の諷・興の義に合し、歴歴として珠を貫くが如くして、看るに易くして悦ぶべからしむ。故にこれを「連珠」と謂うなり。

昔々の詩(「詩経」などの)たとえを借りて批判したり叙述のきっかけにしたりする「諷」や「興」という技法と同じで、(言いたいことを)はっきりと、また珠に穴を空けてこれをヒモで貫いたように連続させて、読みやすく、かつ心地よくしたものである。このため、この文体を「連珠」というのである。

そうです。(晋・傅玄「連珠を叙す」より)。

この陸機の「演連珠」もタマを貫いたように五十首の連作になっております(上記は第35首)。ので、明日から49日分の更新のネタが出来てうれちいな。

 

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